小説「本当の嘘」全5回の4

 雨は相変わらず降っていた。僕は、しばらく雨を見つめていた。それからゆっくりとオッサンに視線を移した。オッサンも雨を見つめていた。

「おじさんは嘘ついたことありますか?」
 オッサンは納豆が笑ったような顔で答えた。
「いっぱいあるよぉ」
 僕は納豆に笑顔は似合わない、と思った。
「あのぉ、もしかしてさっきの交通事故の話も嘘?」
 オッサンは返事をせずにゆっくりとうつむいた。
「あ、すみません」
「俺の一番の嘘は女房についた嘘だな。『幸せにする』って言っちゃったから」
「結婚してたんですか?」
「今もしてるよ。法律的には」
「ああ…」
「結局、あの交通事故が俺の人生を狂わせたな」
 そう話すオッサンの悲しそうな表情とさっきの納豆が笑ったような顔がどうしても結びつかなかった。
「実は俺、子供もいたんだよね」
「じゃ、奥さん大変だったでしょうね」
「大変なんてもんじゃないよ。ま、俺にそんなこと言う資格ないけどさ」
「奥さん、偉いですよね」
「ああ。だから俺、連絡なんかできないよ」

 himi2さんに本当のことを言うべきか、…迷った。

件名:秘密です。
from masa
本文:神秘に包まれたmasaですので質問にはお答え出来かねます。それではhimi2さんに勲章が増えることを願って終わりにしたいと思います。

件名:やっぱり変…。
from himi2
本文:masaさんは私の相談を早めに切り上げようとしているように感じますが、私の思い過ごしでしょうか?

 疑われる人間は辛い。告白できない辛さとは違う種類の辛さである。オッサンの横顔を見た。同年代の人より皺が深いような気がした。嘘をつくとあとが大変そうである。

件名:申し訳ありません。
from masa
本文:実は、私は恋愛相談の回答者ではありません。himi2さんはアドレスを間違って送信したようです。本当にすみません。

件名:ショックです!
from himi2
本文:間違って送信してしまったのは私の責任ですが、どうして最初から話してくれなかったのですか?

 僕は送信ボタンを押したときの状況を思い出していた。犬に吠えられたのだ。
件名:つい…。
from masa
本文:怒られるかもしれませんが、興味本位でした。himi2さんをからかう気持ちは全くありませんでした。信じてください。

件名:ひどいです。
from himi2
本文:興味本位とは…。悩んでいる人の気持ちを弄ぶのは人間として最低だと思います。

件名:すみません。
from masa
本文:決して弄んでなどいません。最初はすぐに話すつもりだったのですがhimi2さんがあまりにも僕に似ていたもので回答したくなってしまいました。

 返信が途絶えた。許す気持ちになったのか、それとも怒りが増大したのか…。

 僕は後悔した。どうして回答の返信などしてしまったのか。あのとき犬さえ吠えなければ…。僕にとっての「救い」はhimi2さんに僕の素性を知られていないことだ。世の中に自分のことを嫌っている人間が一人いることを我慢さえすれば問題はない。

 オッサンが口を開いた。
「あのさ」
「えっ、はい」
「俺の楽しみなんだと思う?」

 僕は言葉に詰まった。オッサンの生活に楽しみなどありそうもないからだ。僕が言葉に詰まったのを見てオッサンが続けた。
「兄ちゃんの仕事面白い?」
「いやぁ、面白くはないですね」
「一枚配るといくらもらえるの?」
「だいたい3~4円くらいです」
「ふ~ん。どうして今の仕事してんの?」
「いろいろあるんですけど、簡単に言うと人間関係に疲れて…かな」
「そうだよな。人間関係って疲れるよな」
「ええ」
「俺の楽しみは、昔俺のことをバカにした奴に空想の世界で仕返しすることなんだ」
「はぁ…」

 しばらくしてメールがきた。
件名:少し落ち着きました。
from himi2
本文:本当に頭にきたんですけどmasaさんは私と性格が似ているようですし、それほど悪い人でもなさそうなので許すことにしました。

件名:ありがとうございます。
from masa
本文:ホッとしました。僕が全面的に悪いのですがやはり自分を嫌っている人間がこの世の中にいると思うと悲しかったので安心しました。本当にすみませんでした。

件名:本当のmasaさんへ。
from himi2
本文:本当のmasaさんはどんな人なのですか? 年令とかお仕事とか。秘密にしないで教えてください。

 正直な気持ちとしては年令はいいとしても仕事を教えるのはちょっとためらいがあった。ポスティングは決して他人に自慢できる仕事ではないからだ。僕という人間の評価を下げてしまう気がした。でも僕は嘘をつくつもりはなかった。

件名:自慢できませんが…。
from masa
本文:年令は28才。今の職業はチラシを配る仕事をしています。himi2さんをがっかりさせてしまいましたか?

件名:職業に貴賤はありませんよ。
from himi2
本文:masaさんは今の仕事を恥ずかしく感じてるようですね。気にすることないですよ。罪を犯す仕事でなければよいではないですか。

 オッサンの横顔を見た。

つづく。

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