<風潮>
*この記事は「脱サラをする前に」というサイトから転載したものです。
自民党の総裁選が告示されてから各テレビ局で討論番組が企画され、立候補者9人が意見を戦わせている映像を見ることが多くなっています。それらを見ていて思うのですが、そうした番組があまりに多くて候補者の方々は飽きないのでしょうか。マスコミが聞くことは大体似たような内容ばかりですし、テレビ以外の集会などでも意見を戦わせています。単に意見を戦わせる場所が違うだけで、内容は同じです。飽きないのでしょうか。
確かに、幾度も討論を繰り返していますと、各候補者自身が自らの考えを深め整理し収れんさせていき、候補者間で違いが鮮明になることもあるでしょう。しかし、投票日まであと10日以上ある今の段階で似たような討論を繰り返している映像を見せられる僕のほうは飽きてきています。
そんな僕ですので、討論をしている映像をある程度しっかりと見たのは今のところ3回だけです。生での討論でしたので、各候補者の言葉遣いや振る舞いから、それぞれの意見の本気度やその実効性などが垣間見えたように思います。僕はあくまで専門家ではなく、政治に関心を持っているだけの普通の一般人ですが、そんな僕がこれまでの映像を見て思ったのは、こう言っては失礼ですが、小泉進次郎さんの立候補は「早すぎる」ということでした。
あるネット記事では小泉さんの発言を「薄っぺらい」と表現していましたが、僕も同感です。年齢が若いことはすべてがマイナス要因とは思いませんが、あまりに経験がなさすぎる印象です。環境大臣という閣僚の経験はありますが、もっと主要な閣僚もしくは役職を経験してからでないと、首相という大きな任務は務まるはずがありません。おそらくほかの候補者もそのあたりはわかっているように、僕には感じられます。
さらに勝手な想像をするなら、進次郎さん自身もそれはわかっていて、当初は立候補するつもりはなかったのではないでしょうか。では、なぜ立候補したかと言いますと、政治家としての後ろ盾になっている元菅首相の意向が働いている、と見ています。お父様の純一郎さんはテレビ取材に対して「50歳過ぎてからでいいんじゃないか、と思っているんだけど…」と答えていました。しかし、今ではあまり話をしていないそうで、現段階での後見人は菅元首相です。進次郎さんはその流れに乗るしか道はなく立候補したのだと想像しているのですが、どうでしょう。
そんな進次郎さんを見ていて僕が思い出したのは、自民・社会・さきがけ連立政権が誕生したときの村山富市首相でした。村山首相は社会党の党首だったのですが、下野していた自民党がなんとしても「政権に復帰したい」一心で考えた奇策でした。しかし、それまで政権に反対することでしか存在価値を見出せなかった社会党でしたので、その責任の重さにたじろぎ村山党首は固辞したそうです。それを自民党の幹部が「必ず支えるから」と必死に説得して、「村山政権が誕生した」となにかの記事で読んだ記憶があります。
先ほど、進次郎さんの発言を「薄っぺらい」と書いているポータルサイトのことを書きましたが、ポータルサイトの中には表示回数を上げたいがばかりに、スポーツ系とエンターテインメント系の記事ばかりを並べているサイトがあります。そうした傾向の中に政界の記事も幾つか入っているのですが、やはりどうしても「エンターテイメント」っぽい見出しになる傾向が強くなります。進次郎さんの発言を「薄っぺらい」と紹介したのもそうしたものの一つのように感じました。
以前、このコラムでポータルサイトについて「コタツ記事」として書いたことがあります。「コタツ記事」とは自らは足を使わず、「コタツに座っていても書ける記事」と批判的な意味合いでつけられた名称です。ですが、世の中に出回っている様々な記事をならべて紹介する点において一定の意義がある、と僕は書きました。しかし、最近はまるで「スポーツ新聞の見出し」のような文言ばかりになっていることが気になっています。
言うまでもなく「スポーツ新聞」にもいろいろな種類があります。きちんと裏付けをとって選手や競技の魅力を正確に伝えようとしている真っ当なスポーツ新聞と、それとは正反対に信ぴょう性には疑問がつくが「見出し」が読者を引きつけるスポーツ新聞です。僕の記憶では、ビートたけしさんが芸能界に出てきた頃、信ぴょう性のないスポーツ新聞の「見出し」をお笑いネタにしていたように思います。そうしたお笑いが成り立っていたのは読む側も「信ぴょう性」には期待していないことが前提となっていたからです。そうでなければ、「お笑い」は成立しません。
僕がいつも見ているポータルサイトは「Yahoo」ですが、新たにタブを開いたときのサイトは「Microsoft」に設定しています。理由は、「Yahoo」とは違う選別をしたニュースも見てみたいからですが、こちらは「Yahoo」よりもエンターテインメント系が多いように感じています。そして、どちらかと言いますと、信ぴょう性が高くない系統のスポーツ新聞に近い印象を持っています。つまり、表示回数を上げることを狙ってサイトを作っているように感じています。
このサイトでは「X」(旧ツイッター)の内容を紹介することもあるのですが、ここで紹介されることは単に「X」で表示されるよりも拡散されることを意味します。言い換えますと、「X」の宣伝をしていることになりますが、そこが問題です。「X」だけですと、それほど拡散されないことでも、さらにポータルサイトで紹介されますと、本来さほど炎上しない投稿がポータルサイトの宣伝効果で炎上することにもなります。
現在、兵庫県・斎藤知事のパワハラ問題がニュースになっていますが、ほとんどが批判・非難の内容です。そんな中、あるジャーナリストがほかのメディアとは少しばかり異なる視点でネットに記事を書いていました。多くのメディアがパワハラの具体的な内容を報じてバッシングしているのに対して、この記事は「斎藤知事が辞職を拒む理由」を書いていました。
この記事の視点が正しいのか否かは現段階ではわかりませんが、異なる視点を紹介する意義は大きいように思います。なぜなら、今の時点ではどちらに問題があるのかわからないからです。先月から「和歌山毒物カレー事件」を描いた映画「Mommy マミー」という映画が上映されているのですが、これは1998年7月に起きた事件です。夏祭りで提供されたカレーに猛毒が混入され多くの人が死傷した事件です。
その犯人は容疑を否認したまま、2009年に最高裁で死刑が確定しているのですが、その判決は「冤罪」ではないか、と指摘している映画です。事件が起きてから26年、死刑が確定してから15年です。そんなに時間が過ぎてから「判決が間違いだった可能性」が浮上してきたことに驚かされました。
刑が確定したあとになってから「実は、真実は…」という例を今まで幾つか見聞きしたことがあります。現職の首相が逮捕されたロッキード事件やベンチャー起業家が賄賂をばら撒いたリクルート事件などですが、これらは事件の数年後に「判決は間違いだった」と示唆する書籍が発売されています。もちろん真偽は不明ですが、そうした書籍が発売されること自体が判決に疑義を感じさせています。つまり、冤罪だったという可能性です。
このように世の中の風潮に流されて犯罪が確定することもありそうですが、今の兵庫県の斎藤知事のパワハラ問題もあまりに世の中の風潮が斎藤知事への批判一辺倒になっていることに危惧を覚えています。マスコミは大衆が飛びつきそうな視点で事件を報じるのではなく、容疑者の立場の視点でも事件を報道することがあってもいいように思っています。
人間は間違う生き物ですから。
じゃ、また。
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