あなたはこうやって結婚生活に失敗する(18)の3-最終回
二日後、取引先からの帰り。駅から会社に向かっている途中に強い雨が降りだしました。あなたは近くの建物の軒先下に駆け込みます。道行く人たちを見ますと、突然の雨でしたので通行人がみな小走りしていました。そんな通りを眺めたあと、横を見ますと少し離れた場所にあなたと同じように雨宿りをしている老女がいました。老女は空を見上げていました。見覚えのある顔です。
…キヌさんでした。
あなたは小さく声をかけます。
「こんにちは」
あなたの声に驚いたようすのキヌさんでしたが、あなたと気づくと腰を折り笑顔を返してくれました。あなたはキヌさんのほうへ数歩近寄りました。
「この前はどうも。…それにしてもすごい雨ですね」
「ホントですねぇ。突然で…」
二人して空を見上げました。しばらく沈黙がありました。雨が強くアスファルトを打ち据えていました。あなたは話しかけます。
「あの…、また不躾な質問で恐縮なんですけど…ご主人と結婚して幸せでしたか?」
あなたの不躾な質問に、キヌさんは一度はあなたのほうへ顔を向けましたが、すぐに正面に向き直り雨を見ながら答えました。
「幸せ、ですか…。どうですかねぇ…」
キヌさんはそう答えると口をつぐんでしまいました。あなたは、そのあとにキヌさんの口から続いて出てくる言葉を待っていましたが、それ以上言葉は続きませんでした。キヌさんはただ雨を眺めているだけでした。
あなたも、答えになっていない答えにどのように対応してよいかわからず黙ったままです。しばらくして、あなたはまた尋ねました。
「53年間に、離婚を考えたことありませんでしたか?」
「離婚…。あるかもしれないし、ないかもしれないし…」
またしても、答えになっていない答えです。あなたは少し苛立ちを感じます。
「顔も性格も知らない人と結婚して、愛情はあったんですか?」
「愛情…、自分でもわからないですねぇ…」
あなたは続けざまに質問を繰り出しました。
「結婚して相手に縛られてると感じたことはありませんか? 私は縛られてるのが嫌で自由になりたい、と思ってるんですけど」
キヌさんは視線をあなたの顔のほうに向け、そしてまた雨を見つめました。
「雨、嫌ですねぇ。さてと、帰りますか…」
キヌさんはそう言うと、畳んでいた傘を身体の前に持ち広げようとしました。そのときあなたはその傘の柄に源次郎と名前が書いてあるのを見つけます。
「源次郎ってご主人のお名前ですか?」
キヌさんはあなたのほうを向き、「ニッ」と笑うと雨の中に歩いて行きました。
あなたは帰りの電車の中でキヌさんとのやりとりを思い出しています。
結婚するまで顔はおろか性格もわからない男と結婚して、それで幸せだったのか…。
愛情がなくても結婚生活ってやっていけるのか…。
そんな結婚で後悔はしていないのか…。
あなたにはわからないことだらけでした。ただ…、あの笑顔だけが印象に残っています。
家に着くと、奥さんがリビングのソファでコーヒーを飲みながらCDを聴いていました。やはり、徳永です。奥さんはあなたに気づくと、力ない声で声をかけてきました。
「おかえりなさい」
あなたも元気のない声で返事をするとそのまま着替えに寝室へ向かいます。あなたが着替えていると電話が鳴るのが聞こえました。奥さんが出たようです。
あなたは着替え終わるとリビングに行きました。奥さんはまだ電話で話しているようでリビングには奥さんのコーヒーだけが置いてありました。あなたは奥さんが座っていた席の向かいのソファに座ります。なにげにスピーカーから流れてくるメロディに耳をかたむけますと、「最後の言い訳」がかかっていました。あなたは一人で苦笑いを浮かべてしまいました。離婚を考えている女が「最後の言い訳」を聞いているのも皮肉なものだ、と思ったからでした。
あなたがメロディに聴き入っていますと、奥さんの電話での話し声が大きくなっていくのがわかりました。詳しい内容までは聞こえませんが、奥さんの声に怒気が含まれているのは確かでした。
あなたはCDをかけたまま、リビングをあとにしました。
翌日、朝から晴天に恵まれあなたは心なしか気分が華やいでました。昨日は、突然雨が降りだしそのまま一晩中降っていました。雨は人の気持ちを落ち込ませます。それだけに晴天があなたの気持ちまでも晴れやかな気分にしたのかもしれません。
そのままの気分で午前の仕事を終え、午後になりいつものように喫茶店に向かって歩いていると、ちょうどキヌさんが店のドアから出て行くのが見えました。あなたは歩きながらキヌさんの後ろ姿を目で追いました。そのときあなたは気づきます。
キヌさんの手には傘が携えられていました。
その日は晴天です。傘を持っている必要はありません。そこで、あなたは昨日の雨宿りの場面を思い出します。昨日の雨は突然の雨でした。あなたが当日の朝のテレビニュースで見た天気予報でも雨の確率はほとんどゼロに近いものでした。実際、昨日は雨が降りだすまで雲ひとつありませんでした。けれど、そのときもキヌさんは傘を持っていました。あなたは印象に残っています。キヌさんが傘を広げて雨の中へ歩いて行くうしろ姿を…。
あなたがキヌさんの歩く後ろ姿を遠目に見ながら喫茶店のドアを開けようとしたとき、キヌさんが躓いて転んだのが見えました。あなたは急ぎ足でキヌさんのところへ駆け寄ります。
「大丈夫ですか?」
あなたが声をかけながら背中に手を回すとキヌさんは恥ずかしそうにお礼の言葉を言いました。そしてあなたの顔を見ると、はにかんだ表情をしました。
「ああ、おたくさんでしたか。ありがとうございます。やっぱり年をとると転びやすくなって…」
キヌさんはふらついた足でどうにか立ち上がり、自分の服をはたいています。あなたはそばに落ちている傘を拾い上げました。
「はい、ご主人です」
あなたが冗談っぽく言いながら手渡すとキヌさんは照れ笑いを浮かべながら傘を手にしました。
「ひとりは寂しいですよ。だからいつも源次郎を持ち歩いてるんです」
「ええ、わかります」
「おたくさん、昨日、愛情がどうしたとか言ってましたよね」
「ええ…」
「あのね。愛情はね、一緒に暮らしていると芽生えるんです。私から言わせると、一緒に暮らす前の愛情なんて屁みたいなものですね」
「クサイってことですか」
あなたは笑いながら応じます。
「それじゃぁ、もう一つの質問ですけど。結婚に縛られて自由がなくなるような気がするんですけど…」
「それは逆ですよ。自由っていうのは、拠点があるからこそ感じるものです。もし、拠点がなかったら自由かどうかもわからないじゃないですか。その拠点が夫であり妻なんです。つまり結婚ですね。私はそう思います」
「はぁ…」
「だいたい…。50年も夫婦やってると愛情なんてありませんよ。あるのは…」
「あるのは…」
「あるのは…、『そばにいる』という状態ですね。私はその状態が大切だと思っていました。それに…、焦らなくても、最後は『そばにいられなく』なりますから。私みたいに」
そう言うとキヌさんは軽くお辞儀をして歩き出しました。あなたはキヌさんの後ろ姿を見つめています。するとキヌさんは数メートル歩いたところで立ち止まり振り返ります。
「あっ、それから…。夫婦は縛られてるものじゃなくて、結ばれてるものですから。それではごきげんよう」
その日は、残業で帰宅時間がいつもより遅くなっていました。あなたが玄関に入ると家の中の電気は消され静まり返り、ただ一部屋リビングだけからわずかな明かりとメロディが漏れていました。
あなたは静かな足取りでリビングに向かいました。リビングに入ると奥さんの頭部だけがソファ越しに見えました。あなたは奥さんに話しかけながら奥さんが座っているソファの横を通り抜け奥さんのほうに振り向きます。と同時に、話しかけるのを止めました。奥さんがソファにもたれて眠っていたからです。疲れているのでしょう。深い眠りについているようでした。
あなたはソファに腰を落とします。ネクタイを緩めため息をつきます。あなたは駅から歩いている間中、昼間のキヌさんの言葉を思い出していました。
あなたは奥さんの寝顔を眺めます。しばらくの間、眺めていました。それからなにとはなしに壁を見渡しました。すると、リビング入口の横に飾ってあるパネルに目が止まりました。パネルにはあなたと奥さんと娘さんが写っています。娘さんが小さい頃近くの公園で撮った写真を大きく引き伸ばしたパネルです。
あなたはパネルを見つめます。……。
次にあなたはテーブルに目をやりました。そこにはA4ほどの用紙とペンが置いてありました。ちょうど奥さんが座っているソファの前に置いてありました。たぶん、奥さんは眠ってしまう前まで、なにかを書いていたのでしょう。
あなたは上半身を伸ばし手に取ります。
用紙は先日も見た「引越し申請書」でした。中を読みますと、引越し先はまだ記入されていませんでした。
新住所:
現住所:神奈川県富士見市横川町3の22の17
あなたは「引越し申請書」をしばらく見つめます。それから奥さんの寝顔を見ました。あなたは考えます。……。
あなたはペンを手にとります。そして「引越し申請書」にゆっくりと丁寧に書き込みました。
新住所:神奈川県富士見市横川町3の22の17
現住所:神奈川県富士見市横川町3の22の17
あなたは「引越し申請書」を元の場所に戻すと、奥さんの寝顔を見つめました。どのくらいぶりでしょう。こんなにしっかりと奥さんの寝顔を見るのは…。そのときのあなたには奥さんの寝顔が安心しきっているように見えました。
これでいいんだよな…。
あなたは吹っ切れた気分になっていました。あなたはゆっくりとソファから立ち上がろうとします。そのとき、スピーカーから聞こえてくる徳永のメロディが耳にとまりました。聞き覚えのあるメロディです。あなたが若い頃、徳永の曲の中でも一番好きだった歌でした。あなたは曲名を思い出そうとしましたが、なかなか頭に思い浮かびません。あなたはプレイヤーの前まで行き、曲順を示しているデジタル表示の数字を確認しました。…10曲目…。
あなたはそばに置いてある徳永のCDジャケットを手に取ります。そして、ジャケットに書いてある10番目の曲名を見ました。あなたは文字を追いながら微かに口元が緩みます。そして、静かにゆっくりと曲名をつぶやいていました。
「僕のそばに」
あなたはこうやって離婚に失敗します。
男と女のラブラブ愛なんて永遠に続くことはありません。あなたの周りを見渡してください。10年、いえ5年の結婚生活を経てもなおラブラブな関係が続いている夫婦はほんの数えるくらいでしょう。そうです。男と女がラブラブな関係でいられる期間なんて人生の長さに比べたら短期間にしかすぎないのです。
では、ラブラブな関係が終わった夫婦は別れてしまうのでしょうか。違います。違うはずです。ラブラブな関係が終わったあとからこそ本当の夫婦がはじまるのです。大切なのは、ラブラブな関係が終わったあとも「一緒にいたい」という気持ちが起こるか、お互いが「そばにいたい」という気持ちが起こるか、です。
まだ、人生の伴侶を決めていないあなた。どうか、いつまでも「そばにいたい」と思える相手を見つけてください。そして是非、結婚に成功してください。
結婚…。
あなたと…、
心にシワを刻みたい。
…おわり。
最後までお読みくださいましてありがとうございます。