お父ちゃん2
先々週、「お父ちゃん」というタイトルでコラムを書きましたが、「お父ちゃん」についてコラムを書くのは1回だけにするつもりでした。お母ちゃんについては4回書いていますので釣り合いが取れない感じがしますが、「お父ちゃん」について書いてしまうと、あまりに生々しくネガティブな内容になりそうで不安だったからです。
やはり、いくら仲たがいした親子関係とはいえ、血を分けた親子ですので強い調子の不満、不平、悪口を書くことははばかれます。しかもお父ちゃんからしてみますと、僕の思っていたこととは違う思いがあるかもしれません。誰しも自分以外の心の中を知ることは不可能です。
もしかすると自分自身の心の中でさえ、正確に理解していない可能性もあります。人間は自分の都合のいいように考える傾向がありますので、自分の気持ちや考えが本当に自然に沸き起こったものなのかさえ怪しい部分があります。
それはともかく冒頭に書きましたように、「お父ちゃん」について書くのは当初は1回だけと決めていました。それを今週も書くことにしたのは、今週のネタが思い浮かばなかったからです。「お父ちゃん」には申し訳ありませんが、今週も書かせていただくことにします。
繰り返しになりますが、これから僕が書くお父ちゃんのことは、あくまで僕が感じたことです。ですから、お父ちゃんの心の中は違っていたかもしれません。本当のところは「神のみぞ知る」という視点が読んでいただきたく思います。
若い頃のお父ちゃんの写真を見ますと、かなりのイケメンでした。実は、僕も若い頃はかなりイケメンでした(笑)。それはともかく、そんなイケメンが地元で工場を営むほど裕福な家の次女と結婚したのですから、資産狙いだった可能性もあります。
僕の、生まれて初めてのお父ちゃんとの思い出は、自転車の前に乗せられて波止場に行ったときのものです。おそらく僕は2~3才だったと思いますが、背中越しにお父ちゃんが僕に話しかけてきていました。また、当時は市営住宅に住んでいたのですが、台風の日に、住宅の庭に置いてあったニワトリのケージを倒れないように、必死に押さえているお父ちゃんの姿もなぜか記憶に残っています。
そのほかには、市営住宅の周りには蛇が頻繁に出没していたのですが、仕事に出かけるまえのお父ちゃんが庭先で棒を片手に蛇を退治している光景も映像に残っています。これらの記憶にはなんの脈絡もありませんが、本当に人間の記憶は不思議な作り方をされているようです。
その後、資産家だったはずのお母ちゃんの実家もなにかしらの理由で没落し、その後一家で上京することになります。東京にはお父ちゃんの姉が所帯を持って住んでいましたが、田舎から出てきた人間からしますと、血のつながった姉の存在は大きな支えだったように思います。小さい頃は、毎年お正月はその姉の家に遊びに行くのが習わしでした。
なんの後ろ盾もない田舎者が都会で生きていくのは大変だったはずです。学歴があるわけでもなく、なんの技能があるわけでもない田舎出身者が家族を養うのは並大抵のことではありません。ですから、間違いなく我が家は中流の下の生活ぶりだったのですが、お父ちゃんもお母ちゃんも田舎者であるがゆえの変なプライドを持っていました。
そのプライドゆえに「他人からからかわれること」を極端に嫌い、ときにその「嫌い」は「恐れる」につながることもあります。
これまでのコラムに書いてきていますが、僕は自分の家が経済的観点から「中流の下」の位置にいることを意識せずに高校まで過ごしていました。とても厳しい運動部に所属していましたので、クラブ活動以外につき合う友だちがいなかったことが功を奏していました。
しかし、高校3年になりクラブ活動から引退したあと、つき合う友だちがクラブ部員からクラスメートに変わります。そこで初めて僕は、自分の家の貧乏ぶりを認識することになりました。しかも運悪くたまたま隣の席に座った友だちN君が「生活ぶり詮索大好き人間」でした。
N君はしきりに「どんな家で、どんな間取りで、どんな部屋で、どんな洋服を持っているか」を知りたがる癖がある友だちでした。当時の我が家は2DKの借家で、そこに親子5人が生活していました。なぜかN君は我が家に遊びに来たがり、断る理由もなかったので呼んだのですが、2DKの間取りではようすをうかがうまでもありません。
我が家に上がり、6畳間と4畳半の室内を見渡すと
「えっ、これだけ」
と思わず口から発していました。あとから知ることになるのですが、彼の父親は大手銀行の支店長を務めており、庭のある大きな家に住んでいました。
僕の高校では進学するのが普通で就職する人は一人もいませんでした。高校後の進路はその学校の偏差値レベルが関係してきます。僕が通っていた高校はそこそこのレベルの偏差値でしたので進学するのが普通でした。
しかし、僕は我が家の経済状況では進学など無理と思っていましたので、漠然とですが就職するものと考えていました。ですが、両親は僕に大学進学を勧めてきました。それはプライドがさせた勧奨でした。
僕には2才上の姉がいるのですが、姉は高卒で就職しています。性格的におとなしい姉は仕事中にトイレに行けず、その無理が重なって勤務中に倒れ救急車で運ばれたことがあります。倒れた理由を「トイレを我慢していたから」と恥ずかしそうに話した姉の表情が忘れられません。
おそらく姉はお給料を全額家に入れていたはずです。ですから、僕の進学のお金は姉が出していたとも言えますが、当時は、そんな発想さえありませんでした。ただ、勧められるままに進学の選択をしたのですが、経済的に苦しいのは変わりません。僕は新聞配達をしながら浪人生活を送っていました。
結局、一浪後に一流とは言えませんが、そこそこ名の知れた大学に合格することができました。両親にしてみますと「名の知れた大学」がとてもうれしかったようです。その数十年後に両親のそうした性格に反発するのですが、当時は親孝行ができたと喜んでいました。
合格が決まってから数日後、まだ両親の心の中にうれしさの余韻が残っている頃にN君が我が家にバイクで遊びに来ました。浪人時代、N君とはほとんど連絡をとっていなかったのですが、突然の来訪でした。
N君も浪人していたのですが、N君が合格したのは偏差値のランク的に僕より下の大学でした。なにかのきっかけでお父ちゃんはそのことを知っていたのですが、N君が来訪したときに、たまたま在宅していたお父ちゃんは「N君を家に上げなさい」と言いました。
20才前の若者は、特に男の場合は、友だちの親と話すのはあまりうれしいものではありません。僕が躊躇していると、お父ちゃんはさらに強い調子で「いいから、上がってもらいなさい」と迫ってきました。
「ねぇ…、おやじが上がったらって言うんだけど…、どうする?」
結局、N君は家に上がり、お父ちゃんの前で神妙に正座をして挨拶をしました。
実は、僕にはお父ちゃんがN君を家に上げた理由がわかりませんでした。別に話すこともないはずです。しかし、その後のお父ちゃんの話す内容を聞いていて、家に上げた理由がわかりました。
お父ちゃんは、N君に大学合格のお祝いの言葉を話したあと、「どんな大学でも、大切なのはそのあとだから、頑張って」と人生訓を話し始めたのです。おそらくN君が僕の大学よりも高い偏差値の大学に合格していたなら家に上げることはなかったでしょう。
お父ちゃんは人生の先輩として、これからのことについて偉そうなことを、わかったように訓話していたのですが、僕は心の中で全く違うことを思っていました。
お父ちゃん…、N君は我が家を「これだけ?」と言った人間だよ。
お父ちゃんはN君の心の中を知らずに旅立っていきました。
じゃ、また。