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<逆転 愛と青春の旅立ち>

*この記事は「脱サラをする前に」というサイトから転載したものです。

本当に驚きました。鳥山明さんの訃報です。ネットニュースで見て、僕は思わず妻に声をあげてしまいました。多くの人がそれぞれ想い出を持っているでしょうが、僕の場合はやはり「ドラゴンボール」です。「Dr.スランプ」をあげる人もいるでしょうが、僕は「アラレちゃん」のようなタッチの漫画は苦手で読んだことはありません。「ドラゴンボール」も最初から読んでいたわけではなく、きっかけは「天下一武道会」でした。やっぱり、戦う場面って燃えるものがありますよねぇ。

当時、僕はラーメン店を営んでいたのですが、定休日を水曜日にしており、その日に放映されていたのが「ドラゴンボール」でした。子供たち(当時5~6歳)と時間を過ごせるのはその曜日しかなかったのですが、その貴重な時間に子供たちと一緒に「ドラゴンボール」を見ていたことは楽しい思い出です。

「ドラゴンボール」に関してあと一つ記憶に残っているのは「少年ジャンプ」の発売日の思い出です。「少年ジャンプ」は本来月曜日が発売日なのですが、「ドラゴンボール」の続きを読みたいがばかりに早めに販売しているお店を探すのが、ある意味流行りになっていました。

噂で「どこどこのお店に行くと土曜日に売っている」などと聞きますと、多くの少年たちはそのお店にかけつけていたように記憶しています。そのような状況の中で、ある日隣でパン屋さんを営んでいたご主人が声をかけてくれました。

僕はそのお店で毎日パンやお菓子などなにかしら買っていました。ですので、お店用の雑誌も買っていたのですが、ある月曜日、少年ジャンプを買ったときに、「実は、土曜日にもう届いているんですよ。よかったら土曜日にどうぞ」と教えてくれました。もちろん僕はお願いすることにしたのですが、ご主人はジャンプが配達されるとすぐに、わざわざお店まで来て僕に知らせてくれるようになりました。ですので、僕のお店では少年ジャンプが本来よりも早く読めましたので、幾らかは売上げに貢献していたように思います。

毎週このコラムを読んでくださっている方はご存じと思いますが、僕はここ数か月、漫画家さんについて書くことが多くなっていました。たまたま漫画家を目指している若い方々の不利な業界システムについて書いたことがあったのですが、その後原作がテレビ化された漫画家の方の死去などがあり、さらに続けて書くことになりました。

そうしたことがあっての鳥山明さんの訃報でしたので、なにかしら「縁」のようなものを感じないでもありません。僕はこれまで幾度か編集者という職業に対して批判的なコラムを書いていますが、鳥山さんの編集者さんに関しても同じような思いを持っています。各局で鳥山さんを悼む番組を放映していましたが、本人が出演していたのは「徹子の部屋」だけだったように思います。もしかしたなら、ほかにも出演してるのかもしれませんが、基本的には鳥山さん自身はメディアに出演するのをあまり好まなかったように想像します。

そうしたことが関係しているのかわかりませんが、僕がいろいろなメディアで「ドラゴンボール」のヒットについて語っているのを見るのは鳥山さん本人ではなく、いつも編集者の方でした。まるで「ヒットをさせたのは自分だ!」とでも言いたげな物言いにはとても違和感を持っていました。

編集者という職業を最初に認識したのは、矢沢永吉さんの自伝「成り上がり」について書いていた本を読んだときです。細かな点は忘れてしまいましたが、「成り上がり」を編集した方が、その本が生まれる過程をつづっている内容で、その中に今では業界で大御所と言われるほどになっている糸井重里さんを「ライターとして抜擢した」と書いてありました。

当時糸井さんは駆け出しのコピーライターだったらしく、その若手を抜擢したことに満足しているようでした。その本を読んで僕は思ったのです。駆け出しだったとはいえ、糸井さんほどのライターの採用可否を決定する権限を持っている「編集者って凄いな!」、と。それからです。編集者という職業について意識するようになったのは。

前にも書きましたが、出版業界には「文芸」とか「ビジネス書」とかいろいろなカテゴリーがあります。そうした中で「漫画」の編集者はほかのカテゴリーとは違うような気がしています。そのように思う一番の理由は、漫画が「原作」と「作画」という2つの要素から成り立っているからです。もちろん両方をこなしている漫画家の方もいますが、というよりも昔は漫画家が一人で書いていると思っていました。

原作者を意識するようになったのは、「ビッグコミックオリジナル」に掲載されていた「人間交差点 -HUMAN SCRAMBLE」という漫画を読んだときからです。これは弘兼憲史さんの代表作のようにいわれることがありますが、僕からしますと原作の矢島正雄さんの代表作といったほうが適格なように思っています。弘兼さんには「課長 島耕作」がありますが、ストーリーの深さでいうなら「人間交差点 -HUMAN SCRAMBLE」のほうに軍配が上がります。

それはともかく、「原作」と「作画」の両方を一人でこなしている漫画家さんは大変です。以前、「ナニワ金融道」を描いていた青木雄二さんの自伝を読みましたが、青木さんは原作と作画の両方をこなしている漫画家でした。その青木さんの一週間のスケジュールの過酷さは並の人では絶対にこなせないものでした。

青木さんは自らの体験を漫画に描いていましたが、それでも資料を作ったり調べたりする必要があったようです。ときには取材をすることもあるのですが、そうしたことを全部ひっくるめての1週間の締め切りです。寝る間もないのは当然です。

おそらく漫画家として成功している方々は皆さんそのような生活を送っているのでしょうが、そこまでにたどり着くのはが大変です。漫画家を目指す若い方々の環境をどれほど改善しようとも成功できるのはほんの一握りです。そこにたどり着くまでは出版社・編集者の意向に沿った仕事をするしかありません。鳥山さんでさえ、「ドラゴンボール」は自分が考えていた当初の構想から編集者の意向で読者が求めていそうな方向へ転換したそうです。

ですが、成功してしまえば漫画家と編集者・出版社の立場は逆転します。週刊誌という発表の場を与えてもらうという弱い立場から、編集者・出版社に利益を与えるという強い立場に変わります。僕が若かりし頃、リチャード・ギア主演の「愛と青春の旅立ち」という映画がありました。この作品は「海軍士官学校の訓練生となった青年が成長していく」過程を描いたものですが、訓練があまりに厳しく、中には苦しすぎて自ら命を絶つ者が出るほどのものでした。ですので、教官の訓練生に接する態度はまるで虫けらに対するようなもので、まさに鬼のような態度でした。しかし、訓練生が試験に合格し卒業したときの場面が忘れられません。

それまで訓練生を人とも思わない態度で接し、まるで虫けらのように扱っていた教官が、卒業した瞬間に態度を一変させるのです。訓練生と教官の立場が一瞬にして逆転するのですが、訓練生から上官となったリチャード・ギアに対して、身体を律し最敬礼をする教官の姿には胸が熱くなるものを感じました。根性論を信条としてきた昭和時代のスポーツ少年からしますと感動的ですらありました。

だからといって、自分もそうした環境に身を置きたいかといいますと、そんなことはありません。そんな死ぬほど苦しい思いをするのやっぱり嫌です。人を人とも思わない教官・上司がいる組織なんてまっぴらごめんです。

だって、卒業できるとは限らないんですから。

じゃ、また。

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