ヘップってなんなん?【ヘップ親父の中国編】 Vol.8
ヘップってなんなん?
ヘップの名称の語源として1954年、映画「ローマの休日」でオードリーヘップバーンが履いていたフロントオープンバックレスサンダルを親しみ込めてヘップサンダルと呼ばれた事だと業界では言い伝えられています。そのヘップサンダルを通称ヘップと業界で呼んでいます。
著作権の問題があるかもしれないので画像は載せることが出来ませんが、アン王女(オードリーヘップバーン)が街にくり出すシーンの中で、露店で履物を買って履き替えるシーンがありますよね。そのシーンの履物がヘップの語源と言われてます。興味のある人は休日に映画観てみて「ローマの休日」だけに笑
97年から中国生産を始める。
それまでは、海外生産の事は考えたこともなかった。しかし、生産していた商品の値下げ依頼があった。
その時に言われた言葉が、「行かないんだったらうちが同じもの作ってくるから」そう言われて黙っているはずがない。すぐさま父は中国生産を決断。
最初は父が中国担当、私が国内担当で役割を分担。その後、数回一緒に中国へ。以前台湾での生産経験がある父は多くの信頼関係を築いてくれていた。
当時は、まだ高速もなく、紅旗とかいう車で上海から地道で2時間ほど離れた工場で生産を始めていた。地道での2時間は結構きつかった。
仕事以外にも宴席がある。郷にいれば剛に従えと何でも食した。香菜と白酒だけはどうもダメ。政府関係者との宴席では中国でもノミュニケーションが大事。
白酒の飲めない私がどうしたかと言えばジョッキビールの一気飲み、これで政府関係者にも気に入られ、何かと宴席に呼ばれた。
その後、取引公司が上海に自社工場を建設。その頃には私が中国担当。そして父からそろそろ国内生産と被らないアイテムを作るようにとの方針が示された。
考えた結果、靴業界へ進出する事をおぼろげに思い描くようになる。
とにかく日本に戻れば問屋回りをし、試行錯誤、そしてミュールの生産を決断する。
ミュールは靴ではないと言う人もおられるでしょうが、ほとんど紳士ヘップしか作ってなかったのでそれでも大きな前身だった。
当時はまだ、靴業界もインソールにはそれ程力を入れて無かったと感じ、ヘップで培ったノウハウをミュールに取り入れた。そして展示会に知人が靴問屋さんを連れてきてくれた。
その後、数件の靴問屋さんとも繋がりサンプル作りが始まり、ミュールからサボ、パンプス、ローファー、ブーツなど色んな種類の生産もできるようになった。
特にサボサンダルは大手小売店の目に留まり年間かなりの受注を受ける。
当時は結構イケてたと思うが今見るとあまりイケてない商品だったんだなぁと思う笑。
工場も新技術が必要なら機械購入。そして肥大化し自社X線検品棟まで建設。
工場は生産キャパも増えてきた為、他靴メーカーの生産も開始となる。中国進出から約10年強経っていた。
中国には「井戸を掘った人を忘れない」(恩義を忘れず、困ったときに受けた支援を後々までおぼえているという意味のことわざ)があるようだが。
父が他界したのは中国進出した約5年後。それから5.6年後、大体の一区切りが10年なのか?
最終的にはその公司とは決別した。
「井戸は父が掘った」という事なのか。
そして、最初の工場から完全撤退。完全撤退前から友人の紹介で他商社とも食事程度はするようになっていたのが功を奏し、今度はその商社を挟み工場と取引するようなる。前回の失敗を考慮し工場は分散方法で「リスクヘッジ」。
工場が変われば工場毎にカラーがあるので、タイプの違う商品も作れるメリットにもやっと気づいた。
(ちょっと気づくのが遅い。)
そして各工場の老板(社長さんのこと)との信頼を築くの為、またノミュケーション。そして何事も正直に、そして作って頂いていると言う気持ちで工場と接する事が肝心。
工場との意思疎通は通訳頼み。命も預けてると思うから信頼関係を築く。
しかし商社の社長から「どっちの味方か」と通訳が叱られ、そのたびに通訳の交代となる。この繰り返しで今度は商社との関係が微妙になり決裂。
しかし、今まで築いた人脈で新工場を探し直接取引をする。今度は、工場が1つになってしまった為、商品を絞る必要がある。そして、売り先を変える決断、そう靴業界からアパレル業界へ。
ヘップ親父渾身の•••(買ってください笑)
https://marusanfootwear.stores.jp/
https://marusanfw.thebase.in/