わたしのおとこちゃん
職人気質でなかなか他を受け入れない父。
それはそれは不器用だけど私達、姉妹を愛してくれた。
まだ車社会ではなかった時代にカブで30分ほどの距離を通勤していた。
ある日の会社帰り、その日は入学する私に向けて鉛筆削りを買って帰ってくる予定で幼い私はとても楽しみにしていた。
帰宅した父が箱から鉛筆削り器を取り出した瞬間を半世紀ほど経た今でも記憶している。そのくらいの期待を持って帰宅を待ち構えていたのだ。
箱は蓋を上にあげられ
いよいよ鉛筆削り器が箱から上に持ち上げられた。
と
と
青い!!!
青いのだ!!
当時のランドセルは赤と黒しかなかった。
男児は、黒
女児は、赤
は鉄板中の鉄板だった
今では考えられないだろうがランドセルの色は選ぶものではなかったのだ。
そして寒色は男子、女子は暖色が大方の感覚だった。
ほとんどの女児がワカメちゃんカットで私もワカメちゃんカットだったが、それがさほど似合わず日常的に男児と間違われていた私は父からも「おとこのこ」と烙印を押され大泣き。いわゆるギャン泣き。
父はすぐさま鉛筆削り器を箱に仕舞い。夕飯も食べずにまだエンジンが温かかったであろうカブにまたがりお店のある街中へと30分ほどの道を戻ったのだ。
もちろん母にめちゃくちゃ怒られながら出発。
既に閉店していたであろうお店を開けてもらい対応してもらったようだ。
幼児の私は「おとうさん」がなかなか言えず「おとこちゃん」と呼んでいた。
いや、こっちの方が言いにくくないか(笑)
帰宅する音を聞きつけ玄関で「おとこちゃん」を連呼しピョンピョン飛んで大歓迎していたそうだ。
そんな大好きなおとこちゃんは絶望的に娘に図らずも「女の子失格」の烙印を押してしまったのだ。
「女の子に、赤色を」この、その時代の勝手な感覚を持っていなかっただけなのに。
今、思うと先進的だったのかい?
鉛筆削り器はバンビのイラストが描かれた赤色のものを持ち帰ってくれたが貰った瞬間を覚えてはいない。
記憶ってそういうものなのかしら。
姉妹を愛してくれた
妹にはグローブを買い与えキャッチボールしていた。妹は野球をよく見ていたようで。そしたらグローブ貰ったようです。
男の子が欲しかったのかなー。
妹はおしゃべり好き。
時々、母から「今日のお話はそれでやめとこうね」と言われるほどのおしゃべり好き。
幼い頃に体がしんどく喋れないほど(これは彼女にとってはかなり重度のしんどさ)の時に異変を感じた父から
「しんどいのか?」と聞かれ、しんどくて話せなくて黙っていたら
「しんどいなら、しんどいと元気よく返事しなさい」とのお言葉を賜ったそうだ。
悪気はないんだよね
本当に不器用なんだけどものすごく愛してくれてたのを今ならわかるよ
もう、おとこちゃんと呼ぶ事もないけれど感謝でいっぱいだよ。
ありがとう、おとこちゃん。
あ、父はいくつか病気あるけど元気でーす!
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