嫌われ者のエモ
あなたは「エモい」という言葉をご存じだろうか
もはや知らない人を探すのが難しいものになってしまった
emotional:感情的な という形容詞
純喫茶のメロンソーダ、山下達郎さんのレコード、斜陽館の屋根で眠る猫、アルゴンガスのネオンサイン……etc.
挙げればキリが無いし、無くなってしまってもまた新たな「エモ」を探す旅に人間は行くだろう。自らを感傷的に、郷里へと戻りたくさせ懐古的なものを血眼に我先にと探し、カメラのシャッターを切りモノクロあるいはセピア調に現像加工しSNSに載せるのだろう。
いつまでも愛されるジャンルだとは思っていた。受験勉強の折に触れた多いとは言えない日本や中国の古典の中にもそういったものは溢れていたし、図書館に陳列されていた、また古本屋の店頭でワゴン売りされていた本にもそれをテーマにしていものもいくつもあった。
しかしながら最近になって、このような「エモさ」を忌避する層が目立つ。ありきたり、であると切り捨てる。
本来中途覚醒した際に一人でバイクをどことも知らず走らせ、かじかんだ手を温かくそして決して美味しいとは言えない缶コーヒーを飲むような、そんな独りで楽しみ味わうもの、味わっていたものが、衆目に晒され、大衆娯楽化されていることが許せないと勝手に私は思っている。
更にはそういった思い出を上手く言語化されていたものを「エモい」という単語でエゴサーチすると誤用?で猫も杓子もエモいエモいとSNSではしゃぎたてているのだ。
たまったもんじゃあない、と。
貴様らにあの感覚にまで達した人間がどれほどいるのかと、可視化も定量化もできない他人の感情にケチをつける。
挙句「エモい」という言葉自体に身震いし冷笑するという。
私の知見ではあるが、”正しく” emotionalな気分になったことがある人間というのは、人生の操縦が下手くそな(悲しくも先天的に上手な人間がいることは明らかであろう)者に、多い気がする。
今回忌避している層は、
せっかく独り占めしていた母を、妹や弟ができたせいで愛のベクトルが変わってしまった、というものに似た感情を抱いてるのではないだろうか。
最後に私のemotionalな感情に出会った数少ない経験を一つ
自殺未遂が友人家族バレし、閉鎖病棟に3か月ぶち込まれ、2か月目にやっと外出許可が出たときだ。
精神病棟の窓というものは、飛び降り防止のため、10センチくらいしか開かない。それ以外は外界との接点が無い。私はいつも日中は自室にこもり夜中消灯時間になったら自室から見えるパチンコ屋が閉まる23時、看板の照明が落ちるまで、狭く開いた窓からひょっとこ、のように口を突き出して寒空の中、外界と繋がっていた。
そんな毎日を繰り返し、精神状態もだいぶ回復したということで入院2か月目に担当医から問診の後、外出許可が出た。その足でナースステーションまで行き、施錠された二重ドアを開いてもらい、入院着とスリッパのまま院外の駐車場まで走り、大雪と暴風のなか両手を天に広げ外の世界を全身に浴びた。
あの時の感情は間違いなくemotionalに近いものであっただろう。
言葉の正しさは時代とともに変わる。受け取られ方は人によって変わる。
あぁ、安酒の水道水割が脳みそを鈍らせてきた。ここらで大風呂敷を雑に閉じよう。綺麗に畳むことは難しいのだな。
誤字もあるかもしれない、失礼にあたる表現もあるかもしれない。許してくれ。諸作家への尊敬と自身の安眠を願う
余談だが、emotionalのem-はラテン語のemovere:外へ動かすが由来の接頭語である。