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長生きは疲れるのかもしれない。

コロナも落ち着き、母側の祖父にまだ曾孫(娘)に会わせられていないので、5年振りに祖父に会いに行くことにした。
祖母は89歳で2年前から認知症が少し出てきて、施設へ入居してから、祖父は93歳で一人暮らしをしている。

遠距離介護で母は見守りカメラなるものをつけて日々、祖父の様子を見つつ、ケアマネジャーさんと連絡をとりつつ、デイケアに週2で通っている。

3階まである大きな家は93歳の祖父が住むにはあまりにも広すぎて、なんとか趣味の木彫りやグランドゴルフで気持ちを維持している祖父がさみしくちいさく思えた。
2階の小窓が何かの衝撃(鑑識の方の判断だと泥棒の可能性は低いとのこと)で割れているのも、1階のリビングと和室で生活を完結させている祖父には気づくこともなく、私が会いに来たのはこれに気づいてあげるべくしてきたのかと思った。

警察を呼んで→経緯を話し→長所にサインをする→建材屋さんに頼んで割れた窓を修理してもらう。

窓の修理完了まで一緒にいたかったがそこはタイムリミット。飛行機の時間の関係で、窓の修理を見守るまでで終わった。

ひ孫には会わせられた。
その場でセブンに行ってスマホの写真を現像して渡せた。
窓も直せて、祖父の笑顔もみれた。

いいことばかりだったはずなのに、道路脇にやっと咲かせたタンポポのように、やっとこさでなんとか踏ん張っている92歳の一人暮らしに、「はやくわたげになって、広い空へと自由に旅立ってほしい」と願う孫は、つめたいのだろうか、ひどいのだろうか。

人生はマラソンに例えられるけれど、92歳は何をゴールとして走れ、というのだろう。
もう許して、と誰かにいいたい。

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