行ってらっしゃい、未来のタカラジェンヌ
ある演目のチケットがどうしても取れず、当日券を狙って、朝早いうちから東京宝塚劇場の前に並んだ。
朝早くとは言っても、自宅から劇場までは1時間半ほどかかるうえ、始バスは午前6時台だ。
到着した頃には既に8時を回っており、かなりの人数が列をなしていた。
最後尾を確認して並ぶと、しばらくして、係員の男性がカチカチと計数器を鳴らしながらやってきた。
「いま何人くらい並んでいますか?」
「120人くらいです。B席のチケットが100枚くらいで、立ち見が20枚くらいですから、今から並んでいただいても取れるかどうか…」
私のすぐ後に来た若い女性二人組はそれを聞いて「やめとこっか」と帰っていった。
しかし可能性は捨てきれない。立ち見になると説明されて列を離れる人もいるかもしれないし、立ち見券まで完売となった後はキャンセル待ちの整理券が配布される。
キャンセル分がS席やSS席であることもあるというのだ。
係員の誘導に従って劇場脇の階段に座り、少しずつ高くなる日にじりじりと焼かれながら販売開始時刻を待った。
「最後尾はどこかしら」
ご婦人に尋ねられ、私が最後尾です、と答えた。
すごい列ね、いま何人くらい並んでいるのかしらと聞かれ、先程係員から聞いたことをそのまま繰り返す。
「でもね、並ぶわよねえ」
ご婦人と笑いあう。
小学生の頃から知っている近所のおばちゃんにすら挨拶もできず、気づかないふりをして通りすぎてしまうのだが、こういうところで出会う全く知らない人とは気楽に話せてしまうから不思議だ。
ご婦人は鞄からエアパッキン(割れ物などを包む緩衝材、いわゆる「プチプチ」というやつだ)を2枚取り出すと、「お尻に敷いて、痛いでしょ」と私に1枚くれた。
それから当日券の販売開始時間まで、列はどんどん伸びていった。
周りの会話に耳を澄ませてみると、私とご婦人だけではなく、列の前後で初対面同士盛り上がっている人は結構いるようだ。
私の前に並んでいる背の高い、控えめな印象の女子高校生はその前にならんでいるご婦人二人と話していた。
ご婦人二人は友達同士らしい。
「ねえ、本当にこれ観たら変わるから!」
ご婦人二人は既にこの演目を観たことがあるらしく、どんなに素晴らしい舞台かを女子高校生に熱弁していた。
その会話にふむふむと耳を傾けていると、列の前方からざわめきが広がってきた。
当日券の販売が開始され、列が動き始めたようだ。
じりじりと進んでいく列。チケットは取れるだろうか。
この組のトップがご贔屓(いわゆる「推しメン」)の友人から、この演目はすごい、絶対観た方がいいと強く推されていたうえ、この日に並んでいた人々の熱弁からも「なんとしても観たい」という気持ちはかなり高まっていた。
ネタバレをしないように内容には触れないにもかかわらず、「とにっかくすごいの」「ほんとにすごいの」という言葉に含められた熱気だけで、不思議と期待が高まる。
係員が人数を数えながら後ろにやってくる。
「このあたりでチケットが無くなるかもしれません」
私の手前あたりであった。
それでも確実に無理だとわかるまではと、販売窓口の目の前まで粘っていた。
「残り3枚です」
窓口に二人の女性が近づく。
あの人たちが買ったら残りは一枚。
私の前には女子高校生とご婦人二人が並んでいる。
と、ご婦人二人が早口で会議を始めた。
「ねえ、私たちは二人でチケットは残り一枚でしょう、この子が観た方がいいと思うの」
「そうよね、受験する前に絶対観た方がいい」
二人はその後ろに並ぶ女子高校生の背中をグッと前に押した。
「行ってらっしゃい、未来のタカラジェンヌ!」
女子高校生は遠慮していたが、「私たちはいいの、もう観たから。あなたは初めてでしょ!受けるんなら絶対見といた方がいい!絶ッ対変わるから!!」と窓口までグイグイと押していかれ、チケットを手にした。
彼女は受験を控えていると言っていたが、それは宝塚音楽学校の受験だったようだ。
私はキャンセル待ちの整理券をもらい、開演の15分前になったら窓口に来るようにと言われた。
数時間を潰して窓口に行ったが、キャンセルは一切出なかったようで、私の後ろに並んでいたご婦人と会釈を交わして帰路についた。
舞台は観られなかったが、目の前で素敵なことが起きたから、満ち足りた気持ちでいっぱいだった。
あの子がタカラジェンヌになったら素敵だな。
ご婦人たち、グッジョブ。