三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実
三島由紀夫の映画「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」の話題に、昨日仕事場でなった。見た方は、映画内の三島由紀夫と学生との対話が哲学的で全く意味がわからなかったという話をされていた。
私は、以前別の三島由紀夫の映画でこの事実があったことは知っていたが、この事実にも三島由紀夫自体にも詳しくはなく、勝手に政治思想についての議論だと思っていたので、見ていて意味がわからないとはどういうことなのかと俄然興味が湧いた。
そして今朝、全部ではないが少し見てみた。
なるほど。これは難しい。。軽く横目で少し見てみた程度では理解は全くできなかった。
でも、その熱と真剣さと真摯さと、それぞれの人たちの行動や思想が、どんな根幹からどう至ってそこにいるのかというのを、火花を散らしてぶつかり合い、摩擦しあい、交換し合っている様子にとても感動した。
その中でも、当時の学生で現在も芸術に携わる芥正彦氏との議論が秀逸で(よくわからないのだけどw)、芥氏にもとても惹きつけられた。今の時代で展開したら、概念論でしょうと言われそうな議論が、実際の彼らそれぞれの言動に結びついていて、その様が、概念が概念で終わらず、それぞれの生き方に結びついていることが感じ取れ、当時の血の沸き立つ生き様を目の当たりにしたような気がした。
これは、本当に私の感覚的な捉え方で、良くわかる人からしたらちゃんちゃらずれているし間違っていると思うのだろうが、
芥氏の、時間の外に出て、その外から物質的な意味合いではない事物そのものに入ろうとしている感性から来る話と、三島由紀夫の自分の物理的精神的な枠組みを規定し、そこから変革や血肉のぶつかり合う対話を行うその姿勢とが、上から超越的な存在で臨む者と下から現実のぬかるみを踏みしめながら立つ者との上下双方のぶつかりにも見えて、そしてそれが人間に確かに存在する二極にも思えて、朝から血が騒いだ。
永遠性を感じる感性と刹那性を生きる姿勢と。そんな単純なものではないのだろうけど、、。
三島由紀夫と芥氏の共通点として、作品を生み出すというところがあったかと思うが、芸術というものの本質的な意義の一端を感じた。
とはいえ、私の頭の中の理解ではその意義の本質的な理解には到底到達しないだろうけど、芸術という誰かの目に触れる形で表現できるものは、この世界のまだ形にならない可能性を少し垣間見せてくれるものなのだと思った。
とはいえ、全然良くわからないので、引き続き見てみて、またじっくり考えたい。。