人間讃歌はすべての表現者の原点

子どもの頃、作家に憧れていた。
小説家、脚本家、漫画家、イラストレーター、画家。
何かを表現する人を格好いいと思っていた。

その夢を諦めたのは、表現者として食べていけるのがほんの一握りだけだと知ったからだ。

まだスマホが世に登場する以前。
ネットで自分の作品を発表することが、今よりも一般的ではなく、一部の人たちの密かな楽しみでしかなかった時代。
プロへの道のりは、今よりも遠かったと思う。
趣味として続けるのでさえ、発表の場が限られていた。

私が、趣味としてさえ、表現するのを挫折したのは、ある漫画がきっかけだった。

荒木飛呂彦先生の、『ジョジョの奇妙な冒険』。
この作品の根底に流れるものを、作者は「人間讃歌」と表現した。
物語を通して、人間を肯定し、生きることを肯定する。

省みると、私の心の根底に「人間讃歌」はなかった。
見てくれた人を勇気づけたり、生きることに前向きになってもらえるような作品を作ることを、私は少しも想像できなかった。

たとえ面白いストーリーを思いつき、高度な技巧を身につけ、運良くそれが人の目にとまったとしても、これではダメだと思った。

私は根本的に、人間を好きではなかった。

荒木先生の漫画をこんなに好きなのに、荒木先生が人間を好きだと言うことが、少しもピンとこなかった。
道端の石ころが好きだと言われているのと大差なかった。

たとえどんなに醜いものやどんなに汚いものを創っても、生きることの難しさを描いても、その作品が人間そのものを肯定しているなら、それは人々に受け入れられ、必要とされるだろう。

逆に、どんなに美しい作品でも、生きることを否定し、人間そのものを否定する作品は、誰にとっても、きっと必要じゃない。

(生きることを否定したい気持ちに寄り添ってくれる作品は、一見、人間を否定しているように見えるかもしれないけど、根本では決してそうではない。)

そういった意味では、「人間讃歌」は、すべての表現者の原点だと思う。


私が「人間讃歌」を少し理解できたのは、最近のことだ。子どもが生まれたことがきっかけだった。

病院のベッドの上で、昼寝から目覚めた時。大きな窓から、太陽の白い光が差し込んで、娘が入った小さな新生児用のベッドを照らしていた。
娘が祝福されているように見えた。
私も祝福したいと思った。

娘の小さな手足は日に日に大きくなり、できることが少しずつ増えていく。
生きることはなんと尊いことかと思った。

私はいつか衰えて、できることが少しずつ減っていく。
そのことさえも肯定されているような気がした。自分で肯定してみても良いかなと思えた。

私はやっと、何かを表現する資格を持つことができたのかもしれない。


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