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これから先、何度も大切な人の「死」に向き合えるか不安になったはなし

数か月前のことになるが、人の死にふれる機会があった。

とてつもなく大きな悲しみに襲われる。その人が亡くなってしまった悲しみ。悲しみを感じる人に対しての悲しみ。これから先の人生において、こんなに悲しい思いを何度もするであろう未来に対する悲しみ。

悲しすぎて当たり前のことを恨んだ。なんで死ぬんだ。なんで死は存在するのか。せっかく人生を生きてきたのになぜ終わりがやってくるのか。答えなんか到底分かるはずはない。

では、なぜ悲しいのか。人や動物が死んだら悲しいことが大半だ。しかし誰が死んだかによってその度合いは違うのではないだろうか。やはり深く関わった人の死の方がショックは大きい。ではその故人はどのような人生を送ったのだろうかと思いを馳せた。どんな幸せや苦労があっただろうか。きっと沢山の出来事や感情の変化があっただろう。信じられないほど嬉しいことや、大切な人の死など胸が張り裂けそうな思いもしただろう。今は亡き故人だがその故人も生前は人々の死を経験し生きてきたのだ。そして最後に自分の命の終わりを迎えた。ごく当たり前のことだ。しかし、当たり前のことだが凄いことだと思った。

ふと周りを見渡すと私以外の葬儀参列者も皆死をこれから受け入れなければいけない人々ばかりだ。以前にも死を受け入れ乗り越えて今を生きている人も沢山いたと思う。誰かの死を乗り越えてきた人は本当にすごいと思った。今生きている人々の大半が死に直面し、向き合ってきた経験があるだろう。みんなすごいなと思った。今生きている人全員がすごいと思った。そして命が終わる時まで色々な感情を味わい生き、そして死んだ人。人生を生き抜いて死んだ人も皆すごいと思った。

 「死」という人生の中でも最大級の悲しみを感じてもなお生きていく人間のパワーはかなりすごいと思った。そのパワーの源は人それぞれ違っているだろうが、それぞれの人にそれぞれのパワーの源があるとしたら誰の人生も価値があり本当に素晴らしいと思う。そして悲しみが大きいのは温かい思い出があるからだと思う。悲しみの裏側にある温かい思い出も、悲しみを乗り越えるパワーの源なのではないかと思った。

 現在二十代の私が人の死に直面した回数はお年寄りに比べ圧倒的に少ないだろう。これから様々な経験を重ね、考え方は変わるかもしれない。気持ちの処理も上手くなるかもしれない。しかし、死ぬときまで生き抜いた人、どんな形であれどんな人生であり生き抜いた人は本当すごいと思う気持ちは変わらないだろう。

悲しいことだがこれからの人生において、大切な人の死に直面する機会は何度も訪れるだろう。それらを乗り越える自信がなくなっていたがnoteを書いているうちに自分の感情を少し紐解くことができ、前向きな気持ちになれた。ただひらすら自分の感じたことを文字に起してみるのも悪くないなと思った。こんな個人的な感情整理文章を公開すべきか迷ったが、せっかくnoteという媒体に出会ったおかげで文にするきっかけを得ることができたので公開してみることにする。

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