amazarashi《あとがき》について。
9月9日の23時に描き始めている。計画性がない。
【あんたへ】というアルバムは、基本的に外に向いているように見える。
ご存知の通り、このアルバムのタイトルにもなっている楽曲《あんたへ》は、かつて自分に向けて歌われた曲で、それを今なら人に向けて歌えるんじゃないか、というところから始まっている。
だから、このアルバムはファンに向けて歌われたアルバムのように見えるかもしれない。
《まえがき》では、自分の過去の道筋に触れると共に、「過去の自分とファンを重ねている。」「そして、過去の自分に向けられたこの曲は、同時に"あんた"(=ファン)にも向けられているよ。」という旨が綴られているし、《あんたへ》はそれを体現した曲だ。《匿名希望》では「君は僕(=秋田ひろむ)じゃない」と突っぱねつつ、「君には君だけの強みがあるだろう?」と寄り添う。どれも、当時のamazarashiではまあまあレアな、ファンに寄り添った曲のように感じる。
(近年では「1.0」などのように、明確にファンを意識した楽曲もたまに見られるけれど。)
しかしながら、その先の《ドブネズミ》《終わりで始まり》は逆に非常にパーソナルだ。(正直《冷凍睡眠》はよくわからない。)
《ドブネズミ》なんかは明確にラブソングであるし、
(これは青森から共に東京に向かった時に居た、CHAMELEON LIFEをやってた時の彼女…をモチーフにしているのでは、と勝手に空想している。そもそもその彼女の存在自体の出処が、当時のCHAMELEON LIFEメンバーが書いた、秋田ひろむがモデルと思われる小説なので眉唾と言っても過言ではないが…。)
《終わりで始まり》も言うまでもなく自分の話。「わいは今までも頑張ってきたし、これからも頑張っていく!」みたいな曲。
「見上げたいつもの夜空 なぜだかあの頃とは違って見えたんだ」は、もう完全に「《あんたへ》を久しぶりに聞いてみたら感動してしまった」というエピソードのことを指してるんじゃないかと思っている。
【あんたへ】というアルバムは、あんたへとかいう名前をしておきながら、どんどん自分のパーソナルな部分へ突き進んでいく。
この【あんたへ】、別に、amazarashiを聴いているあんたに強烈に伝えたいメッセージがある!みたいなアルバムではなく、ただamazarashiの前進を伝えるアルバムだからだ。
だから、結局着地地点は「秋田ひろむ」個人に密接なものになる。
そして、その最たるものが《あとがき》だ。
それも、「"現実の"秋田ひろむ」に非常に密接。
《終わりで始まり》も現実に即したものだが、終わりで始まりというフレーズや、自分の人生そのものを俯瞰してみるようなその歌詞から、どこか集大成のようで、壮大な雰囲気が漂う。
一方、《あとがき》は、どこまでも今現在の秋田ひろむだ。
自分の人生の浮き沈みを見てみて、なんだかんだ頑張ってきて、見える風景も変わり、こっからがわいの始まり!……とは言ってみたものの、結局「恐る恐る生きる」毎日。
現実は辛く、自分は不甲斐ないままで。
俯瞰してみれば希望に向かっている人生だったとしても、結局「今日」を切り取ってみれば嫌な事ばかり。「9月9日」と詳細な日程が決まっているのも、これはとある一日の心象風景なのであるということを印象付けるためなのではないかと考えている。
しかし、進むためには、その小さな「嫌な今日」をいくつも乗り越えて行かなければいけないわけで。
そのためには希望が必要だ。それが自分にとっては「君の笑顔」であったり「酩酊して笑い合う、分かち合う価値」であったりするのだ。
例えば、(秋田ひろむがそれを望んでいるかは別だが、)「amazarashiが大人気になる」とか、「大金持ちになる」とか、そういう人生の行き先を決めるような夢ではなく、ただ明日、9月9日を乗り越える、それだけの為のささやかな希望が必要なのだ。
おそらく明日も、また嫌な毎日で、このままどこに向かうのかもわからない。そういう不安に駆られる日々。
結局あるのはそういう「現実」。ただ、最後にそういう「現実」と、その中のささやかな明かりが綴られる。
これが、amazarashiもとい秋田ひろむが明日の一歩を歩むために必要なことであり、その一歩の連続で秋田ひろむは前に進む。
【あんたへ】のテーマは「amazarashiの前進」だ。《まえがき》~《終わりと始まり》で、どう進んできたのかが丁寧に綴られている。
《あとがき》は、そのさらに先、「amazarashiはこれからどう進んでいくのか。」、そのための楽曲なのだ。