昔のはなし【熊本2003~2005】
前職のリクルート社を辞めるときに一気に書きなぐった10年前に書いたはてなブログが出てきたので、noteに全部移しなおします。2003年から2010年に至るまでの20代のときにやっていた仕事の話しをダラダラと載せていきます。
17年前ごろの話しからスタートするので今の時代には通じないような話しも沢山あるし、かなり細かい具体的な事業戦略の話しとか書いていいのかわからんけど、問題あれば消せばいいのでまぁ気にせず転載してみます。
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【熊本編①】忘れもしない内示
2003年12月某日。
ホットペッパー京都編集部でゴキゲンに営業中。
突然プライベート携帯に東京ナンバーで電話がなる。
誰?と思いつつ電話に出る。
DVOのS口さんからの直電。
「丸橋今から東京来て。」あまりに一方的。
「いやいやS口さん。今日1月号の締め切り日なので、
クロージングのアポが結構あるんですけど・・・。」
「いや、いいから来て。版元長には俺から言っとくから。」
「分かりました・・・。」
意味も分からず新幹線に飛び乗る。
もしかして人事か?いや人事でわざわざ東京呼び出すか・・・?
う〜ん・・・。
と思ってる間に東京に着く。新幹線はやっぱり早い。
内幸町のオフィスへ到着。
内線でS口さんを呼び出す。
S口さんの秘書らしき女性に案内され、
「熊本」という名前の着いた会議室で待つこと五分。
DVO S口さんと、当時Div長のIさんが席に着いた。
世間話も何もないまま、井上さんが話し始めた。
「今度熊本にタウンワークを創刊する。
HRでのノウハウと、ホットペッパーでの行動モデルの両方を備えた、
お前に立ち上げのリーダーを任せたいと思っている。
ただ、お前はキャリアウェブでホットペッパーに来た。
だから、お前の意思も尊重したい。行くか行かないか。5分考えろ。」
そう言うと、2人は部屋を出て行った。
5分て!
と思いつつ、一生懸命考える。
何を考えたかは正直全く覚えていない。
そうしているうちに2人が部屋へ入ってきた。
「どうする?決まった?」
「え〜〜〜・・・お断りします。まだ京都にいたいです。ごめんなさい。」
今にして思えば、恐ろしい事を言っている。が当時は素直な気持ちだった。
すかさず井上さん。
「そうか。残念。もう人事決まってんだよ。」
あまりにひどい。
「自分で決めた。と思ったほうが頑張れるだろ。
絶対に”行く”って言うと思ったからお前のために考える時間をやったんだ。」
なるほど。
それはそれで納得。
というわけで、2004年1月1日付けでタウンワーク熊本への転勤が決まる。
今にして思えば、これが人生を変える転機だったように思う。
【熊本編② 3年で100億の事業へ】
「タウンワーク」に対する当時の僕のイメージは最悪だった。
首都圏でも既に展開していたが、
・単価が極めて低い
・メディアとして魅力がない
・ローコストで仕組みで回す商品
・社員が売るメディアではない
・Rイチ低俗で、泥臭い商品
という偏見を抱いていた。
同期のF山が1年前に東京HRからタウンワーク広島へ異動になったと聞いたとき、心の底から、可哀相だと思った。
同時に爆笑もした。「左遷」とはこういう事か。とまじまじと感じた。
そのタウンワークに、異動が決まった。
しかも「熊本」。広島よりも更に田舎・・・。
でも、とりあえず行くしかない。
正月休みの間に腹をくくる。
2004年1月4日広島支社
2004年5月創刊予定の熊本、高松、北九州の3つの版の
版元長とゼロワンリーダーが広島に集結した。
僕は熊本のゼロワンリーダーというポジション。
同期のF山は、若手のホープとして高松の版元長(Gem)の任に着いていた。
直接の上司になるT島氏ともこの日が初対面。
一緒に最高の仕事をしよう。
そう言って硬く握手した映像が、今でも鮮明に頭に残っている。
その夜。広島の街へ繰り出し歓迎会。
「この事業を3年で100億にする。その足がかりの第一歩が、
熊本、高松、北九州の3版。お前らの成功が、100億への第一歩。」
統括のK山さんが酔っ払いながら熱く語る。
当時の狭域タウンワーク事業は年商10億ちょっと。
赤字を垂れ流し続けてきた事業だった。
版元は福岡、広島、仙台、岡山の4版のみ。
100億といえばその時の事業の10倍。
3年で10倍の事業にする。というのだ。
このビジョンに、
心の底からワクワクした。
出来たらいいな。というワクワクではない。
絶対に成し遂げてやる。というワクワク。
その為のシナリオは既に出来上がっていた。
いまそこにないもの、姿を信じ切る事が出来た瞬間だった。
【熊本編③当時の地方都市タウンワークという事業 】
3年で100億。
そのビジョンは勢いだけで作れたものではなかった。
タウンワークに限らず、
当時あらゆる事業が地方展開で苦戦していた。
リクルートにとっては、
地方事業は”お荷物”でしかなかった。
地方で働く社員はリクルート社内では2軍以下。
いわば窓際のポジション。
東京で戦い敗れた人々が流れ着く先でしかなかった。
当然地方で働く人たちのモチベーションも上がるわけはなく。
地域活性という名の下に、利益を生まない、
マスターベーション的事業を粛々と行っていた。
「東京のやり方は、地方では通用しない。
そこを東京本社は分かっていない。」
それが当時の地方従業員の口癖。
じゃーどうするのか?
その答えを持ち、実践している事業はなかった。
そこへ現れたのがホットペッパー事業だった。
明確なビジョンと戦略・戦術を持って、
ホットペッパーは文字通り一気に全国の都市で成功を収め、
年商300億。利益90億のお化け事業へ変貌を遂げた。
※2020年現在は年商1000億を超える超お化け事業になってますが。。。
地方都市での戦い方。が確立する。
「狭域ビジネスモデル」と後に名づけられるこのモデルは
極めてシンプル。
①ランチェスター戦略にのっとり、一点突破。
「やらない事」を明確にし、事業戦略とKPI、プロセス指標、評価基準を一貫させる
②経験の浅いメンバーでも成果を挙げる事の出来る型を用意し、
最大限努力する風土を作り上げる
③組織の全員が事業に対する当事者意識を持ち、
事業に対して強くコミット出来る環境を創ること。
具体的には、
・組織とメディアとマーケットを一手に担う組織を版元として独立させる。
・各版元が独立した会社としてPLを持ち、売上・利益・シェア・成長率を競い合う。
・事業ビジョンの日々繰り返しによる刷り込み(洗脳)
・各Gを事業として設定し、事業ビジョンを明確に打ち出す。などなど
これが全てである。
そしてこのモデルを作り上げたのが、
僕が尊敬してやまない。H尾先生。
そのモデルをタウンワークにそのまま転用した。
タウンワークは2002年の地方展開当初。
東京での展開商品と全く同じ商品、戦略をとっていた。
当時で言えば珍しい無料誌ではあったが、
全頁モノクロ、原稿はほぼテキストのみ。
あらゆるコストを極力抑えたローコストオペレーション。
それでも、競合誌と比較すると掲載料金が割高。
紙面の内容も競合誌に見劣りする。
正直これで競合の強い地方で勝てるわけがない。
結果年々赤字を垂れ流す事業として存在していた。
2003年。
ホットペッパーのモデルを参考に、
タウンワークの事業戦略は一気に選択と集中に舵を切る。
□狭域TW事業ビジョン
タウンワークで魅力的な雇用溢れる街をつくり、
自分たちの生まれ育ったこの街を元気にする。
□事業シナリオ
・創刊から1年以内で街の中心部エリアの販売、サービス、フードのアルバイト募集で、エリア内で掲載件数シェアでNo1をとる。
・自分の街の求職者にとって情報量・質の両面で一番役に立つ存在になる。
□商品戦略
・商品を全頁カラー化し、圧倒的商品力を持たせる。(無料でカラーの求人誌)
・小スペース(1/16P)中心の広告商品から、1/4Pしか売らない。と決め、
その為の価格施策を導入する。(新規1/4P2週掲載2万円。定価は4.5万円)
・原稿はフォーマット原稿のみで揃える。フリーは売らない、作らない。
・コアエリアに商圏を絞り、ニーズの集中する狭い範囲でのみ営業活動を行う。
・販売、サービス、フードのアルバイト募集のみに集中する。
□営業戦略
・指標を件数のみで設定。売上げ目標は持たせない。
・営業商圏を絞り込み、そこから出る事を許さない。
・プロセスに徹底的にこだわる。
・販サフードのアルバイト募集へのリプレイス営業しかやらない。
・ノンテリトリー。一つのお店に何人もの営業が飛び込む。担当はお客様に決めてもらう。
・新規 に集中する。
Etc・・・
□事業を貫く方針
ビジョン、事業戦略、営業戦略・戦術全てがカスターマー主語で語られた。
例えば、全国展開するチェーン店の個別店舗募集。普通に考えれば本部と接点を創り、まとめて発注頂く事が理想的。しかし、狭域ではそれを許さなかった。
あくまで個店で店長からご発注頂く。30店舗あれば、30人の営業マンがそれぞれの店舗と個別にやりとりをする。それを事業ルールとした。なぜか?
効率を考えれば、まとめたほうが良いに決まっている。一方で、1店舗を1/30と捉え た瞬間、原稿のクオリティは落ちる。東京の人が創る2万円の広告と、現地の人間が 創る2万円の広告。同じ2万円の広告でも、原稿作成にかけるモチベーションは圧倒的 に違う。結果として、現地の店舗を取材した人間の方が100%そのお店の体温が伝わる原稿が創れる。読者から見た時に、どちらの広告が多い本が魅力的な求人誌か?答えは明確。
読者が手に取った時に、
そのお店で活き活きと働くスタッフ、スタッフがイキイキと働ける環境を作り出す店長を登場させ、お店らしさ、お店の魅力をしっかりと伝えきる情報誌を創ること。
それが第一優先として事業部の方針だった。
それは、様々なプロセス指標や評価指標、日々の褒めポイント、叱りポイント、日々のコミュニケーション全てに一気通貫で語られた。
カスタマー価値の向上につながるか否か?カスタマーに対して誠実であるか否か?その為に、各営業マンは各クライアントの採用意識を変え、採用予算を多く取り、いい原稿を作成する事に日々魂を込める。
自分たちの組織は何を大切に考え、
その為に何をしようとしているのか?日々の辛い営業活動は、何に繋がるのか?それを全てカスタマー目線で語り続ける組織だった。
【熊本編④】熊本の求人広告マーケット
1年で街の中心部エリアの販売/サービス/フード アルバイトパート領域でNo1をとる。
目標は明確。
商品のハードだけ見れば、圧倒的にTWに分がある。
一気に逆転できる気がしていた。
しかし、事はそう簡単ではない。
圧倒的な競合の存在。
株式会社K促進事業会。「A君の求人案内。」
熊本に本社を構え、九州全域で圧倒的シェアを誇る。
熊本の求人マーケットにおける求人案内のシェアは約80%。
求人といえば求人案内。誰もが知っている。
過去多数の競合が参画し、
ことごとく跳ね返し、撤退に追い込んできた九州の雄である。
リサーチを兼ねて営業に回ってみる。
「熊本には求人案内があるから大丈夫。」
「どうせおたくらもすぐ撤退するんでしょ。」
「求人案内さんを裏切ると後が怖いんだよ。ごめんね。」
「求人案内で十分人は採用できる。」
「求人案内さんは毎週顔出してくれるから、裏切れないよ。」
全くもって、入り込む余地が見えない。
どう戦うのか・・・。
"ロジックジャンプ”という言葉が狭域では使われた。
何度も何度もお店に通い。
断られても、罵声を浴びても、ののしられても、
また明るく笑顔で訪問し、
何かひとつ価値を提供して帰る。
それを繰り返していると、
あらゆる理屈を突然飛び越え、
急に接近できるタイミングがある。
それをロジックジャンプ。と呼んだ。
圧倒的な競合の存在に勝つ為には、
理屈を超えた戦い方が必要となる。
一筋縄では勝てない。
それが当時の熊本のマーケットだった。
【熊本編⑤共に戦う仲間を集める】
定量的なデータと、自転車で街中を走り回って集めた定性データを元に、
事業の三ヵ年計画を練る。
・商圏の範囲をどこに設定し、流通経路をどこにどう何箇所構築するのか?
・半年後、1年後、3年後の成長シナリオ(KPI・3ヵ年PL)
・組織構成
上記3つが三ヵ年計画の骨子。
当時の上司と2人で、夜な夜な地図を広げ、競合掲載企業のマッピングをし、地図に線を引いていく。三ヵ年計画、営業計画、組織計画の立案を全て一任頂き、毎日夜中まで資料作成。
手垢にまみれた地図と、三ヵ年パワーポイントを持ち、
当時執行役員に3ヵ年計画のプレゼンを実施し、承諾を得る。
その日の夜は嬉しくて朝まで飲み明かし、12時間ほど爆睡。
結果熊本行き飛行機に乗り遅れる(笑)。
事業計画は固まった。
次はいよいよ計画を共に実行する“仲間”を集める。フェーズ。
「優秀か否か?ではない。こいつとなら、仮に事業が失敗したとしても仕方がない。そう思える仲間だけを集めよう。」と当時上司のT島さんが言った。
この言葉は、後々大分の立ち上げ責任者として着任した際に、
自分に言い聞かせる言葉となる。
現実として、優秀な人材。が地方に多数存在する可能性は低い。加えて、3年限定の契約社員という雇用形態。優秀な人材だけで組織を構成できるはずがなかった。
延べ1000人近くの応募者から、13名の仲間を採用。
リクルートの新卒入社4名を加え、4月1日時点で総勢17名の組織を創った。
「タウンワークでこの街を元気にする。強い競合に勝ち伝説を創る。」
「仕事を探す時、当たり前にTWを手に取り、当たり前にTWで応募する。
その結果、待遇だけではなく、やりがい軸で仕事を探す人が増える。いい人を集める為に、経営者が本気になって採用活動する。そんな街を創り上げる。・・・」
毎晩毎晩お酒を交わし、自分たちは何を実現しようとしているのか。そのための手段としてTWをどんなメディアにしたいのか。手に取る人たちがどんな反応をし、企業やお店をどう変えていくのか。そんなビジョンばかりを毎晩毎晩語っていた。
一種の宗教、洗脳である。しかし日々繰り返し話す事で、確実に組織に共通の思い、意識が醸成される。
特にリテールマーケットに於いて、
1人の営業が出来ることには限りがある。
1人の飛びぬけて優秀な営業がどれだけ頑張っても週30件が限界。
10人の営業が、1人3件で30件。1人1件積めば10件積める。
結果、メディアとして情報量を増やす為には、
一人の英雄のずば抜けた結果ではなく、全員の頑張りの総量に直結する。
「チームで戦う」
これが狭域タウンワーク事業のスローガンであった。
リクルートという会社は個人主義的な考え方が強い。
強い自己実現欲求を持ち、セルフモチベーションで自分を鼓舞し、パフォーマンスを上げる。そんな強い個の集まりがリクルートの強み。
しかし、狭域に於いては、
「人は人と関り合うことによってのみ成長する。」
「共にある喜びを感じる。」
といったメッセージを事業として発信し、職場型モチベーションを徹底して追及した。
事業のメッセージ、職場でのメッセージ、目標設定、KPI、商品設計、評価指標、全てが一気通貫で設計された組織。働く立場として、最高の環境がそこにはあった。
【熊本編⑥】チームで戦う。
2004年5月24日発行の創刊号目標は掲載件数210件。
同時創刊の高松、北九州は早々と創刊号目標をクリアし、
2号目、3号目の営業をスタートしている中、
熊本だけは、創刊号締切日ギリギリまで目標を追いかけていた。
しかし、最終締め切り日になっても、
目標件数にはまだまだ及ばない。
奇跡でも起きない限り、達成は見えない状態だった。
しかし奇跡は起きる。
締切日、街中に散らばっている営業から、
続々と受注の連絡が入り、メールで瞬時に全員に共有される。
そのメールに刺激を受けてか、
更に受注が積み重なっていく。
締切日にようやく、ロジックジャンプが起こり始めたのだ。
結果、ほぼ全ての営業が個人目標もクリア。
そのほぼ全員が、最終日に達成した。
実はそこには理由がある。
毎日通い続けた事ももちろんひとつの理由である。
しかしそれ以上に、営業の本気度が全く違う。
本気でこのお店に掲載して欲しい。
掲載してもらえれば絶対にいい原稿を創る。
絶対にいい人が採用できる。だから掲載して欲しい。
その本気度、営業の温度が違うのである。
その温度の違いは、
明確に結果の違いになって現れる。
特に、経営者が相手であると明確に結果が違う。
経営者は相手がどれだけ本気か。に極めて敏感である。
終わってみれば、
210件600万円の創刊号目標に対して、217件800万。
創刊目標をクリアした。
最終日。
ものすごい勢いで、全員が受注を重ねていく時、
誰もがチームで一丸となって数字を追う事の心地よさを感じた。
「チームで戦う。」
狭域で掲げるこのスローガンの意味を、
チームメンバー全員が肌で感じた瞬間である。
翌週月曜日朝8:00.
オフィスにタウンワーク熊本版創刊号が2万部届いた。
チームメンバー全員が涙する。
周りから見れば、異様な光景でしかない。
しかし、涙が止まらない。
全員で真っ赤なTシャツに着替え、
出来上がった2万部の本誌を持ち、街の中心部へサンプリングへ向かう。
その集団の最後尾にいた僕は、
前を歩く17名のメンバーの背中を見ながら、
この最高の仲間たちと、一緒に仕事が出来る幸せがこみ上げてくるのを感じた。
人生観が変わった瞬間。と言ってもいい。
一人で出来ることの限界。チームで出来る事のスケールの大きさ。
自己実現という当時主流の言葉のむなしさ。
それを心の底から感じた瞬間だった。
【熊本編⑦】どん底を共有する
幸せな瞬間は3日も続かなかった。
目の前には、翌週発行号の営業締め切りが迫っている。
創刊号の営業期間は約2ヶ月。
しかし、2号目発行号の営業期間はわずか5日間。
タウンワークは週刊誌。
当然毎週発行日があれば毎週締め切り日がある。
「止まると死ぬ世界」が創刊した瞬間からスタートする。
何の準備もせずに2週目を終えた我がグループは、
当然の事ながら2週目の目標を大はずし。
創刊から3号目には、
情報量70件、ページ数約30ページの
文字通りペラペラの熊本版がオフィスに納品された。
その日からどん底の日々が始まる。
同時創刊の北九州・高松は絶好調。
創刊からどんどんページ数を増し、目標をクリアしている。
一方、熊本版はどんどんページが薄くなり、目標にも遠く及ばない。
毎日配信され、毎朝全メンバーに共有されるランキング日報では、
ランキングの下位を熊本メンバーが独占。
3版の3名のチーフがランキングされるチーフ欄は、
決まって丸橋が3位。上位2名が毎週入れ替わる。
正直、見るのも憂鬱な日報である。
しかし、毎日、毎朝共有される・・・。
そんなどん底の毎日を象徴するエピソードがある。
熊本地場でカラオケ店等を幅広く展開する企業があった。(以下K社)
K社は競合誌の掲載頻度No1企業。
年間で約2000万円程出稿している超重点顧客であった。
社長は週一度事務所に顔を出すが、
それ以外は阿蘇の別荘に篭っている。
その週一度のタイミングを掴み、飛び込みで僕が訪問した際のエピソード。
意外にも社長室にスンナリ入れて頂けたが、
競合誌Q社の営業担当と、社長がソファーで商談中。
その横に、正座で座らされる。
以下忘れもしない社長とQ社営業の会話。
社長 「タウンワークって?君知ってる?」
Q社営業「一応知ってますよ。なんか東京の会社が作ってる本です。」
社長 「こんな薄っぺらい本、誰が見るとね(笑)」。
Q社営業「社長・・・。一応頑張ってらっしゃるんですから(笑)。」
社長 「ただなら載せてやってもええけどね・・・。」
そう言って床にタウンワークを投げ捨てた・・・。
それを見てQ社営業は大きく笑う。。。。
屈辱。
しかし、当時のメディア力の実力であった。
この時がどん底。
どん底を共有したチームの選択肢は2つ。
逃げ出すか、歯を食いしばるか。
この状況に耐え切れず退職するメンバーも数名発生。
しかし、退職せずに歯を食いしばる事を選択メンバーは、
この後、強い絆で結ばれていく。
【熊本編⑧】潮目が変わる
メディア力が弱く効果が出ない。
競合のメディア力は極めて強く、効果も出る。
競合と顧客の関係は良好。
しかも価格はTWの方が高い。
そんな環境下で出来ることはたったふたつ。
・足しげく顧客に通い、関係を創る事。
・少しでもいい原稿を創る事。
断られても断られても、笑顔で顔を出す。
話す時間が少しでももらえれた時の為に、役に立つ話をちゃんと用意しておく。
チャンスを貰えれば、とことんこだわって原稿を創る。
もし効果が出なくても、理由を検証し、もっといい原稿を創り直す。
愚直なまでに、
メンバー全員でそれを実行し続けた。
業績・結果には目をつむり、
何件の顧客に訪問したのか?何を話したのか?
効果はどうだったのか?なぜダメだったのか?どうすればいいか?
毎朝メンバーが自主的にロープレを行い、営業の精度を上げるために日々努力を重ねる。メンバーの中でPDCを高速回転させる。
日々共有される日報に追い詰められながらも、
自分たちに出来る事はそれしかない。と腹をくくった。
そんな僕達の覚悟に、まず反応したのはカスタマー。
まず”効果(応募数)”が上がり始める。
魂を込めて作成した原稿に、読者が反応してくれた。
創刊時には応募平均約1.5件/1広告、応募ゼロ率50%だった応募効果が、
創刊から3ヵ月後には応募平均約4件、応募ゼロ率20%へ。
効果が上がると、全てがうまくいき始める。
・営業が自信を持ってTWを案内できる
・結果に満足してもらい、営業が楽しくなる。
・一度掲載したお客様がリピートしてくれる。
・併用顧客が、TW一本に絞り始める。
・本が徐々に分厚くなっていく。
・もっと営業が楽しくなってくる。
といったサイクルが出来あがる。
本を目の前で投げ捨てたK社の完全リプレイスにも成功。
創刊から半年たった11月。
紆余曲折、どん底を経て、何とか200件前後の情報量を毎週担保できる状態へ。
どん底を共有し、共に乗り越えたチームは、
多少の困難にも負けない強い絆で結ばれたチームになっていた。
そのチームを更に強く結びつける為に、
主要メンバーと共にあるプロジェクトを立ち上げた。
「300件プロジェクト」
2005年3月中に、
情報量300件のTW熊本版を創る。というプロジェクト。
リピート率、総顧客数、営業人員、諸々の条件を出し、
10月迄に何件の新規顧客創出が必要か?
一人頭、週何件の新規が必要か?
その為に、どれだけの顧客接点を毎日持つ必要があるのか?
などなど緻密に計算し、
全員の日々のタスク目標に落とし込み、
それを見える化し、全員で管理し合い、鼓舞しあう。
順調にマイルストーン目標をクリアし、
目に見えるほどに情報量は毎週増えていく。
カスタマーからの反応もうなぎのぼりに上昇し、
クライアントの反応もどんどん好感触になっていく。
まさに、事業が起動に乗り始めた。
潮目が変わった。
そう感じた直後、辞令がでる。
2005年3月1日付けで、
「大分事業の立ち上げ責任者として大分へ異動」
組織に衝撃が走る。
が、そこは過去困難を乗り越え続けてきた組織。
「300件プロジェクトを2月中に達成し、
これまで引っ張ってくれた丸橋さんへの華向けにする。」
と自分たちで目標を前倒しに修正。
2月中旬で見事目標をクリアしてくれた。
おりしも、
異動直前の2月22日。丸橋の第一子が誕生。
立ち会うため京都へ3日間帰省。
自身の週間目標を大幅に外す結果になるが、
なんと、丸橋以外の全メンバーがハイ達成しグループ目標をクリア。
職場に戻った自分に対し、
「私たちは大丈夫です。安心して大分に行ってください。」
というメッセージ。
1年間の辛かった毎日が走馬灯のように頭に浮かび、
ただただ涙が止まらなかった。
その後熊本Gは、
見事4Q目標を達成、
翌1Qには単月黒字化を果たし、優秀PC賞(銀賞)を受賞。
組織として成長した姿がそこにはあった。
同時に商品の成長、マーケット(読者・顧客)の成長を同時に肌で感じる。
自分たちの事業が、仕事が、商品が街を変えていく。
リクルートに入社して、狭域へ異動して本当によかった。
偽りなくそう思える事が何より嬉しかった。