場所性と超近代のしごと
場所と働き方はながらく密接に関わってきた。働き方が変わればコワーキングスペースができてきたように場所も変わってくる。どこでも仕事ができることは働き方を自由にするのかどうか、あれこれ考えていることを途中経過として記録した。
自営業を志し仕事をつくりはじめたのは2007年だが、最初に取り組んだのは実は仕事づくりではない。ボロボロの一軒家を仲間と借りて修繕してイベントスペース兼ギャラリースペースをつくった。そこから、仕事をつくる環境が少しずつ生まれた。
以下、報告である。
【場所をつくることについて-素人もやっていい】 私の場合は、飲み会が高くてつまらないからなんとかしたい、という動機がきっかけで場所をつくることを始めました。
建築不動産の仕事をしていたからではありません。そういうわけで基本素人なのですが、そのほうが根源的な部分に立ち返ってやれる面もあります。常識の壁が最初からない。
その場合も場面場面では専門の方のお知恵をお借りするのは大変力になります。しかし、今は色んな分野の人が共通項を見いだしてあれこれ話ができる場所があまりありません。みんな仕事で忙しいですから。普通に会社勤めして生活していたら、自分の業界外の知り合い等あんまりできないと思います。
場所というか建物を改修するので面白いところは、様々な分野の人が参加できる、というところです。素人でもやれる仕事もあります。そこがいい。
最初につくった家では、色んな人の話を聞くイベントを開催しました。聞く人は素人です。様々な専門家にとっても業界用語が通じない場所で話すのは鍛えられます。そういう場所をつくりたい、という動機でした。
ところで、リノベーションといえば古いビルをなんでもかんでもカフェにすればいい、みたいな風潮があります。カフェならカフェでもいいんですが、そもそもその内実が大事なのであって、全ての建物をリノベーションしてカフェ、いいよねという話ではないわけであります。もっともそんな志向をする人が多いとも思いませんが。
その地理のその建物で何をすれば一番よいか、というのは千差万別です。まあ基本ないけど、あったら機能するもの、を入れるべきですがそれに対しては、ハコがあるだけでもダメで、適任者である人が必須です。人、結局人です。だから、色んな人の話を聞くイベントをやったのもありますが。
いきなり「場所つくるの大事ですよね!」という方も多いのですが、何が大事なのは、というのを考えた方が良い。
私の意見では、場所と言う曖昧なものに対しては、質の追求というのが欠かせない。これは数量で測れる面も多少はありますがそうではない部分も多く、下手なマニュアル化は不必要であると言えます。メディアに取り上げられててもイマイチな場所もあります。場所は広告の題材ではない。
場所自体がメディアである、みたいなのも悪くはないのですがかっこすぎますね。
いずれにせよ、場所をつくるというのは、植物を育てるような感覚で取り組むのが現実的だろうなと思います。すぐに結果がでるようなものでもない、そのうえでやれることを積み重ねていく、というのが共有されたら素晴らしいなと思います。
やっつけの仕事であろうとも場所が消えていくのは悲しいものです。コワーキングスペースが流行ってるからやってみて、すぐ消えたとか。都市はそれなりに新陳代謝があったほうがいいのかもしれませんけども。まあ場所の維持は大変ではありますけどね。粘りもいります。
【場所とキャリアの共通性】
仕事と場所は、いずれも近代以前以後で考え方がガラリと変わる類い野茂のだと思います。仕事というとキャリア、ともいえますね。キャリア形成などを近代以前の人々がそもそも意識していたのか謎ですが。
場所性に捉われないというのが、近代化だと思うのですが(どこでも同じサービスが受けられるようにしていこうとか)、それが仕事に関してはどういうことになるか。
つまり、グローバル近代社会が挑戦しているのは、どこまで人間の労働力や職能は交換可能かということです。果たして、それに人間はどう適応するのか。
「どこでも通用する人間になろう!」というかけ声は、解答がずれると「誰とでも交換可能な人間になろう」ということにもなってしまいます。
そういうのはちょっと勘弁してほしい、と言う人は多いんではないか。その中で人間性を保ちつながら働くためには、何が必要か。
最近お見かけする楽しそうな働き方をしている方々は、一見どこでも通用する人間になった方々のように見えます。が、むしろ偶然性に身を任せていたら、今に至ったという方が多い。
結果的に、独自性がある働き方をされている。デザインされたキャリアではない、そっちのほうが独自性が出ているという矛盾!
まあ、人間の考えることはたかが知れているので、意識に100%依存して進路を形成しても、「まあそうなりますよね」という展開になるのだろうと思います。
これは意識的な「キャリアデザイン」がせいぜい近代の産物にすぎない、ということです。いまは「まあそうなりますよね」というのはシステムが代替してしまいます。
そうすると、別にあなたでなくても、ということにもなってしまう。だから、いかに独自性を生み出す偶然、つまり無意識を己の人生に取り込めるか、という一つ上の階層の人生設計が必要なんじゃないかと思う次第です。
無意識を排除してしまうと、論理のみで「カフェ」「倉庫」みたいな記号的な組み合わせしかでてこなくなるので、やっぱりそれはダメです。
【場所とキャリア】
それでは、21世紀の働き方ってどうなるんでしょう。私は、昨今の重要テーマの一つである場所性というのは実は働き方にも大事な意味を持つのではないか、と考えています。
現代美術の世界でも、どこでも同じ条件というホワイトキューブ展示もありつつ、農村や離島で場所に制限を受けた展示も一方では盛んになっております。そこに行かないと体験できない、という特殊性が人々から評価されている。(なんとかトリエンナーレで作家には金銭的な還元がない、という話もありはしますが)
教会に行かないと美術が見れないという時代から、大衆も美術を所有して持ち運びができるようになってみて、しばらく経ってみたら、意外にも場所に捉われた展示が別の形で求められている。
人のキャリアも同じようにですね、場所性と言うか、ある種の制限要因から生まれてくるものなのではないだろうか、と思った次第です。自分の仕事や役割の場所性をどう設定していくのか、というのを考えないといかんのだろうな、というのが最近考えていることです。
だからどうしろ、というのは分かりませんが、普段と違うルートで帰宅するとか、行かないところに行ってみる、とかそういう細かいチャレンジが大事であろうと思う次第です。