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「食育」という言葉に惑わされないために

「FOOD&BABY世界の赤ちゃんとたべもの」という展示会を2019年2月に企画・開催して以降、「食育」について尋ねられることがあります。
自分自身も周りも「食育」という言葉に縛られているように感じるので、「食育」について考え、食育の本質を捉えたいと思います。

上記展示会の開催に伴い話を聞いた”日本で子育てをした中国の方”は以下のように「食育」について語りました。

「食育」という言葉があるのは、日本だけじゃないですかね?食に対する日本人の執着じゃないですけど、こだわりがすごくて、世界のどの国より取り入れていて。これは文化の一つですよね。それが、日本にしかないとてもいいところだと思います。
離乳食という言葉が‥本を読むと「これが食育のスタートなので、これがきちんとできないとこの子は将来ごはんに対していい子になれない」という思い込みで一生懸命でした。

この方だけでなく、「食育がきちんとできないと、食に関して将来的に子どもが困るだろう」と考え、心配している親は少なくないと思います。

「食育」とは?

そもそも「食育」という言葉は、明治期に活躍した食養医学の祖とされる石塚左玄と小説家の村井弦齋が使い始めたとされています。

石塚は、「体育も智育も才育も、すべて食育であると認識すべき」と記しています。また、村井は「小児には、徳育よりも知育よりも、体育よりも、食育が先。体育、徳育の根源も食育にある」と記しています。

このような背景から、平成 17 年 6 月に制定された食育基本法においては、「子どもたちが豊かな人間性をはぐくみ、生きる力を身に付けていくためには、何よりも『食』が重要である」とした上で、食育を、「生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきもの」とし、「様々な経験を通じて『食』に関する知識と『食』を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てること」と位置付けられています。

出典:食育の歴史(農林水産省)
https://www.maff.go.jp/kinki/syouhi/seikatu/syokuiku/pdf/tebikisyo2.pdf

「食育」という言葉の呪縛

食育基本法制定から15年ほど経ち「食育」という言葉は、広く普及し、ほとんどの人がその言葉を耳にしたことがあると思います。子どもの食育に限定して言えば、「子どもが食べることを楽しむ」、「その食べものがどうやって作られているか知る」など、食に関心を持たせることの大切さに異論はないのですが‥なんとなく今の「食育」に違和感を覚えていました。

そんな中で、平川あずささんのコラム「食育」は誰のものか。暮らしに根づく「食育」を読み、違和感の原因と「食育」という言葉に縛られていた自分に気づきました。

違和感1:理想の形にはめ込む

食育を中心になって進めてきた栄養士たちは、人々の食生活を「理想的な形」に改善する教育活動を安易に考えていなかっただろうか。「その子の家庭の事情に思いを寄せることをせず、その子の食事について否定的になったり、正しい食事の『鋳型』にはめ込もうとしたりすること、プライバシーへの配慮を怠ること、それがいかに残酷なことか‥」

各家庭や、その子によって「ベストな形」はそれぞれ違うはずなのに、家庭での「食」もパッケージ化されているようにも感じてしまうのです。SNSで各家庭の料理を閲覧できるようになり、ハレの日の料理(特別)をケの日の料理(普段)のように感じ、「理想の普段の食生活」を勝手に決めつけ、それにはめ込もうとしてしまっていたのでは‥と反省中。

「世界の離乳食」でも、他国では「誰かに見せるためではない、それぞれの家族のための食事」という要素が強かったように感じます。

違和感2:親主導の食育

「押しつける」食育ではなく、その子自身の持っている潜在能力に、大人がうまく寄り添えて、自然に育てているように思える。
 しかし、料理に得意、不得意があるように、教えることにも得意、不得意があるのが当たり前で、そんな「理想」のお母さんたちがやっている食育を真似しようとしてもなかなか難しい。

本当にその通りで、耳が痛い!食育だけでなく、子育てで「押し付ける」のではなく、「その子の潜在能力に寄り添う」ことは難しいけど、本当に大切ですよね。

子どもに食育を!と考えたら、まず”自分(親)が得意なのは何か。自分はどんなタイプなのか”を考える必要がありそうです。背中で伝えるタイプか、見守ってヒントを出すタイプか。材料を揃えて一から丁寧に料理を作るのか、冷蔵庫にあるもので時短でササッと料理を作るのか。そしてどのように子どもに寄り添うのか。

世界のお母さん・お父さんたちは、離乳食でさえ「子どもに任せる」、「子どもが決める」と言っていました。そして「家族で食卓を囲むことが重要。子どもが親の食べ方を見て学ぶ」と。「食育」という言葉はなくても、食育してますね!

違和感3:食育がイベントコンテンツ化

「食や生活の営み=暮らし」が大切なのではないかと考えている。栽培とか調理だけでなく、「食」にかかわることは、一過性のイベントでは暮らしに定着しないので、継続的な食育が大切である。暮らしの中で繰り返し行う食育は、こどもの「生きる力」を育むことに直結するはずである。

「食育」をテーマにしたイベントは多々あります。もちろんそれは「食に興味を持つきっかけ」には良い!でも一過性ではないですか?と平川さんが問題提起しており、これに完全に同意です。食育関係のイベントも、珍しいことを体験して「楽しかった」で終わるのではなく、その後の普通の暮らしで継続して行える要素があると素敵。

最後に

「食育」に「育」が入っていることで、「大人が育てなくては」という気持ちになります。そして「育てる」という言葉は、「一人前になるまでの過程をうまく進むように、世話を焼き助け導く(岩波国語辞典)」という意味を持つので、知らず知らずのうちに「大人が育てなきゃ」という使命感に駆られてしまいます。

でも「子どもと一緒に食べることを楽しむ」
それが一番の食育で、「大人が育てなくては」と思わなくても、子どもはそれぞれ潜在能力を持って、自ら育っていくと思います。ただ食に対する興味を持つポイントや、アプローチは子どもそれぞれで異なるので、子どもの興味を察知し、子どもの先生ではなく、ファシリテーターになれるといいな。(自戒です)


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