【ライオンの棲むところ】EP.9 ギリギリ
2月に入り、2週目からいよいよ本格的にチームを宮部さんに引き渡した。
6時20分には出勤していた生活から打って変わって、9時出勤になったことがまずは1番の変化だった。朝3歳の末っ子を保育園に連れていく余裕もあるし、上の子たちの朝ごはんを見守ることができる。当たり前のようにやって来たことが、この10ヶ月出来ていなかったことに気がついてゆく。
と同時に、大きな喪失感と一人静かに戦っていた。いつも自分が乗っていた会社の8人乗りのバンが出勤するとすでに無くなっている。宮部さんが既にチームのみんなを連れて出発しているからだ。自分がやるべきことを人にやってもらっている感覚が、いつまでも抜けなかった。駐車場を見ないようにしている自分がいた。
島田屋食品のチームは午前中の仕事が終われば引き上げてくるため、2時過ぎには事業所に着く。作業着の入った大きなカバンを下げて、慣れない仕事にクタクタになった宮部さんが、事業所の長い階段を上がってくる。
「戻りましたあ」
気の抜けた声が玄関から聞こえる。
「お帰りなさい!今日は何やったんですか?」「水原さん、聞いてくださいよ!
こう言う場合どうすればいいのか…」
宮部さんが帰ってくると、自分の1日の報告書をまとめながらも島田屋食品で今日やった日替わり作業の内容を聞き、アドバイスをするのがここ数日の流れになっていた。
不思議と私が行かなくなってから1週間ほどで、私も聞いたことのないような作業が増えていた。私も10ヶ月は通ったが、後2ヶ月分の作業は経験していない。本当に色々な商品を扱っているのだと、私も話を聞きながら感心してしまう。
「覚えたと思ったらもう違う作業に切り替わってしまうんで、上達しないですよね。それこそ何年もいないと、流れなんて分からないですよ。」
「氷川課長が社員の滝沢さんと話していたの聞いたことがあるんですけど、3年で把握できたら大したもんだって言ってましたね。氷川課長がそう言うんだから、実際はもっとかかるんじゃないかな」
「やっぱりそうですよね…!いやー… 水原さんも利用者さんも、よくやっていたと思いますよ、本当に」
そうなのかもしれない。こうやって人伝に話を聞くと、やっぱり大変な仕事だったんだよね、と他人事のように感じ、でもなんだか誇らしくもある気がする。
こんな話を和気藹々としながら、宮部さんは出勤が早いため15時前には記録を書き終えて明日の準備をし、あっという間に帰っていく。私は16時半上がりだ。
彼女が帰りまた自分の仕事に戻っても、まだ自分の中に嫉妬のような感覚が渦巻いていることに焦り呆れる。
自分が知らない作業を彼女が覚えていくことに、なんだか焦りのような感覚を感じてしまうのだ。
(いい加減にしてよ…)
自分に対して嫌気がする。特に氷川課長と会話した話を聞いた時は、自分でも驚くほどの嫉妬心を感じた。私は男の人と付き合っても、嫉妬心を感じたことはほとんど無い。連絡も淡白なタイプで、数週間連絡が無くても自分からは連絡しないタイプだ。
初めて感じる黒い感情に、自分自身が心底驚いていた。
–––こんな自分嫌だ。一人の人に執着したり、嫉妬したり、こんなの、自分じゃない。自分らしくない–––
こんな日々の中、ある事件が起こった。
新しい契約先が見つからないため、事業所内でできる内職仕事を所長が見つけてきた。事業所内でその作業にあたる人々は、今契約している会社や仕事内容が、本人の障害特性になかなかマッチせず、外の仕事に出られない利用者の方々だった。
その中に、山里さんという男性利用者の方がいた。時々大きい声を出して怒り出したり、高笑いしたりと、知的障害と精神疾患と両方持っている方だった。男性に対しては高圧的になるが、女性に対しては優しいため、女性スタッフが基本的に対応することになっていた。
彼と関わるようになってから1週間で、かなり気に入られたらしいことは彼の様子や言動で分かっていた。お菓子の差し入れやぬいぐるみ付きのキーホルダーまで、帰りに渡してくるようになったのだ。
と同時に、なんだか距離感がおかしくなってきた。作業中手を上げてわからない所や出来ない所は質問するのだが、必ず私を指名で質問し、隣にいると体のどこかをくっ付けてくるのだ。
そしてある日、致命的な事件が起きた。
彼にコピー機の用紙が無いが交換の仕方がわからないと声をかけられ対応している時に、さり気なく私の背後に回り込むと、お尻と胸を同時に触ってきたのだ。
その部屋は個室で、他の利用者さんからは二人で屈んでしまうとギリギリ見えないような位置になってしまう。明らかに計算だった。
相手は知的障害を持つ方だと、私自身油断があったのだと思う。だがその計算高さを感じた時に、初めて恐怖に近い感情がザワッと湧きこった。
–––これは報告しないと
早速翌日、男性上司に事の顛末を説明し報告した。上司は私の話を重く受け止めてくれ、その日のうちに彼に面談の時間を取り、面談が終わったら作業はさせず今日のところは帰ってもらうと宣言してくれた。作業をさせないと言うことは、せっかく来たのにその分のお給料が貰えないという意味だ。いわゆるペナルティである。
私は今日は別部屋で仕事があることにし、彼や皆さんから距離を取り、2時間ほど彼にいつも通り仕事をしてもらったところで上司が面談室に彼を呼び出した。
1時間ほど時間をとっていたように思う。どちらかともなく、大きい声が聞こえるたびに、殴り合うような事態に発展しているのではないかと、気が気ではなかった。
だが面談室を出てきた山里さんは、とても大人しくなんだか小さくなっているように見えた。いつもは少し横柄な態度をとっているような彼が、そそくさとロッカーの荷物を取り出すと、「今日は帰ります」と自ら帰ってしまったのである。そんな彼の背中を見送っていると、「水原さん」と上司に面談室に上司に呼ばれる。
「やっぱり彼も、やったことがまずいと分かっていますからね。罪悪感があったみたいです。事実確認するとあっさり認めて、謝ってくれました。」
なんだか拍子抜けの展開だった。彼の性格的に、絶対認めずもっと揉めると思っていたのだ。
「そうですか、良かった。
これから外部の仕事に送り出す時も、契約先でこのような問題を起こされては、チームごと契約解除になりなますからね」
私たちの仕事は、仕事の技術的なサポートはもちろん、社会人としての規律や在り方・マナーをお伝えするのも役割の一つだ。こういったことをなあなあにしてしまっては、許したことになってしまう。彼のためにもならないのだ。「勿論その通りです。
今回はすんなり話を聞いてくれましたので、本当に良かったですよ。僕も彼の特性上、殴られたらどうしようと内心ドキドキでしたから」
上司の速やかな対応に感謝して、その日は安心して帰宅した。その週は何事もなく過ぎさり、土日明けの月曜日。
出勤すると駐車場にシルバーのトヨタの普通車が止まっていた。咲華が持つエリアマネージャー用の車だ。
「なぜ今日来ているんだろう?」
嫌の予感がしながらも、二階の事業所に上がっていく。
2階に上がると、先輩スタッフと上司の姿がない。そしてエリアマネージャーの姿も。利用者さんが出勤するまで30分あるため、いつもの清掃に入ろうとしたその時、「水原さん、ちょっと」と先輩の声がした。
声がかかったのは、上司がいつも会議に使うパソコンがある部屋からだった。一般スタッフは掃除以外出入りを禁じられている部屋だ。
恐る恐る入ってみると、そこに姿の見えなかったみなさんが揃っていた。
「水原さんも、座って」
エリアマネージャーにそう言われ、ささっと空いているパイプ椅子に座った。
「…私がわざわざ来たのは、大変なことが先週末起こったからです。先週の水曜日、ある利用者さんが東京本社に我が事業所に対して大クレームを出しました。上司に言われのないことで責められて、犯罪者呼ばわりされ、一般スタッフから汚物を見るような目で見られたと。おなえらは咲華の正社員かもしれないが、何様なんだ、と。」
––– 血の気がサーッと引くような感覚とは、こういうことを言うのだろう。考えなくても分かる。山里さんだ。
「面談日の当日から、彼は毎日本社にクレームの電話をしているようです。なんとかまずそれを辞めさせなければならないの。」
マネージャーは眉目に指を当てて、
「分かってるわね」と、男性上司を横目で見る。上司は見るからに青い顔をしていた。
「はい」
「彼には謹慎処分として、1週間出勤を控えてもらい、反省文を書いてもらいます」
–––反省文… 彼は勇気を出して山里さんに私の訴えを伝えてくれただけだ。上司として、当然の行動だったのではないか?別に声を荒げていたわけでもない。上司は話しをゆっくり聞いてくれる、包容力のあるタイプだ。そんな彼が謹慎処分…
私が相談したがために。私があの時スタッフとしてもっと上手く立ち回れていたら–––
気づけば利用者さんの声が階下から漏れ聞こえて来ていた。先輩がマネージャーに許可をとり、彼らの出欠確認のために部屋を出ていく。
私も部屋を一刻も早く出て行きたいが、そうはいかない。青い顔をした上司と一緒に、取り残されていた。
「–––水原さん、まずは島田屋食品の引き継ぎお疲れ様でした。毎日ほとんど休まず、遠くまでよく行ってくれたわね」
労いの言葉が、重くのしかかってくる。
「…だけどね、まだ水原さんはこの仕事について分かってないことがありそうだから、言わせてもらうわね、」
「障害者を相手にしてたら、セクハラなんて当たり前よ。むしろ、セクハラと捉えないで欲しいの」
「彼らは寂しいのよ。コミュニケーションの一つってとこかしら。あなた介護職やってたのよね?だったら話が早いじゃない。カワイイ顔してるし、触られた事の一つや二つ、あるでしょう?でもいちいち訴えた?言わないで話のネタにするくらいの感覚だったでしょう!それを思い出してほしいのよ。それと一緒なの。」
途中からマネージャーの話しが、頭の上を滑って入ってこなくなった。
大したことじゃない?
寂しいから仕方ない?
…本気で言っているのか?
私の表情が硬いのを見て、納得していないと感じたのだろう。
「私の話が理解できないってことは、向いていないってことだとも言えると思うのよ。嫌だったら、いつでも辞めていいからね。ちょうど島田屋食品の担当も交代になったことだし。
代わりはいくらでもいるんだから」
捨て台詞のようにそれだけ言い残すと、「支部に今日は用があるから。」と颯爽と行ってしまった。
言われたことが衝撃で、しばらく思考が停止していた。あんなこと、本当に人に対して言える人間が居るんだ、と思ってしまった。
「大丈夫?」
上司が声をかけてくれた。ハッとする。
「大丈夫です。私が相談したばっかりに、こんなことになってしまって… 本当に申し訳ないです」
私が平謝りするのを、上司は慌てて止める。
「水原さんはおかしいことをしたわけじゃないよ!というか、別に自分が悪いことをしたとも思っていないけど… やっぱり、相手が悪かったというか、運が悪かったと言うことか、な」
へへっと弱々しく笑った上司が痛々しかった。
今まで見えていなかった事業所の“膿”が、自分から見て浮き彫りのなった事件だったように思う。
島田屋食品のアットホームな雰囲気と、口数は少ないが下のものを守ろうする氷川課長のいるあの現場に、戻りたくて戻りたくて仕方なかった。