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【ライオンの棲むところ】EP.10 再会。そして、さよならの始まり
引き継ぎの件を伝えた数日後、氷川課長と2人きりになった瞬間があった。私が機械室に用があり1人入っている時に、氷川課長が後から部屋に入ってきたのだ。
私は作業で使った後の空きケースを部屋の奥に収納しに来たのだが、片付けて振り向くと課長が立っていた。お疲れ様です、と挨拶して立ち去ろうとしたその瞬間、
「ねえ、水原さん辞めちゃうの」
と、急に話しかけられた。
話しの流れも何も見えず、一瞬きょとん。としてしまったが、要はなぜ今引き継ぐのかが、氷川課長の中で納得できていないのだろう。
…てか聞き方、可愛すぎないか?
キュン死にしそうである。
「…咲華のことですか? 辞めないですよ。今回の引き継ぎは、本当に私の個人的な理由じゃなくて会社都合です。 せっかく繁忙期まで来させてもらったのに、違う会社に行かなきゃならないなんて、私自身も納得してないです」
氷川課長に話しかけてもらった嬉しさで、思わず正直な気持ちを口走ってしまった。
すると課長はふーん…と頷くと、
「水原さんは、ここに来たいんだ」
と、小さく呟いた。私は正直に、
「はい」と答えたと思う。
またふーん…みたいな感じで、一人考え込みながら部屋の奥へ進んでいく。…行って良いんだよね?私は軽く会釈すると、機械室を後にした。
この会話がまさかあんな展開になるなんて、私はこの時思いもよらなかった。
セクハラ事件を受けて、山里さんと関わらないよう注意しながら、日々の業務に励んでいた。2月の最終週2日間だけだが、宮部さんが子供の行事の関係で平日休みを取ることになっていた。彼女が休みの場合は、元担当の私が連れていくことになっている。
あと8日、あと7日、とカウントダウンしながら、何とか毎日過ごしていた。
山里さんはというと、自分の主張が優先されたことを受け満足していたようだった。だが、少し距離を取ろうとする私に絡むようになり、毎日のように
「俺のことクズだと思ってるんだろう」とか、
「死ねば良いと思ってるな」などと、顔を合わせる度に言われることにストレスを感じていた。その場は穏便にすむようやりすごし、感情が動かないよう心を押し殺すようになっていた。
そんな中、私が3週間ぶりに島田屋食品に行く2日前に、エリアマネージャーから正式にうちのチームが島田屋食品から撤退する旨が伝えられた。
予想していたものの、やはりショックは隠しきれなかった。12月から最終的には8人になり、ベテランの利用者さんも新人さんも必死になって頑張ってくれた。宮部さんも新しくチームを任されたところで撤退とは、悔しいに違いない。明後日は現場でどんな話しになるんだろう。
久しぶりに会える緊張と、撤退決定が氷川課長からどのように伝えられるのか。
会いたいような会いたくないような、複雑な気持ちだった。
いよいよ3週間ぶりの島田屋食品への出向日。
久しぶりに作業場に入る。更衣室からパートのおばさん達に「あら、久しぶり!」と声をかけていただき、早くも胸いっぱいな朝だった。比較的皆さんの慣れた作業の予定に胸を撫で下ろし、身体中にコロコロをかけてから手を洗い、手袋をはめる。手袋に打ってある粉の香りがふわっと漂って、懐かしい気持ちになった。
3週間も経っていないのに、なんだか浦島太郎になったようだ。手洗い室から作業場の中が見える。準備しながら小窓から中を覗くと、ぱちっとある人と目が合った。氷川課長だった。
「おっ」といった反応が、目の輝きで分かった。ぺこっと会釈をして、小窓の前からささっと消える。ヤバい。緊張してきた。3週間ぶりに会った氷川課長が輝いて見える。重症だ。
最近娘が韓国の女子ダンスグループにハマり、また学校の可愛い先輩のことも家で話す時に、やたらと「推し」という言葉を連呼するようになった。なるほど。絶妙な言葉だ。
確実に熱狂的に「好き」だし、リアルに存在はしているが、自分の現実社会で接点は持てない存在。今の私が氷川課長に抱く感情は、彼女のそれと近いものなのかもしれない。
ただ私と彼女が決定的に違うのは、「推し」とコミュニケーションを取ってお仕事しなければならないという事だ。
作業場に入り、挨拶する。
「おはよう御座います」
「…おっ!水原さんじゃないですか」
氷川課長がわざとらしい演技をする。私は嬉しさを隠しきれない。
「お久しぶりです!良かった、忘れられてなくて」
こんな掛け合い、入った3ヶ月では考えられなかった。
「忘れる訳ないでしょ、こんな思い切りコキ使える人」
「…さーて、配置行ってきます。今日はD工程から先で良いんですよね?」
ニヤニヤしながら「そだよ」と答えてくれる。
久しぶりなのに、こんな打ち解けた雰囲気で話せるなんて。幸せだった。
お昼間際になり、私が課長のそばに呼ばれての作業になった。この日は全くパートさんも1人残らずお昼休憩に行き、正社員もほとんど残っていなく、うちの咲華チームだけが空き時間の壁の清掃作業をしていた。
「元気だった?」
「なんとかやってましたよ」
「うち来ない間何してんの」
「仕事無いから事業所内で内職の見守りとか、チラシのポスティングで地図を見てサポートしたり… そんな事してましたね」
「ふーん、勿体ないな。水原さん仕事出来るから」
緊張しながらも、いつもよりすんなり会話出来てる感が不思議で嬉しかった。色んな話しをする中で、和菓子部門が和菓子を卸している先の話しになった。夏作っていた水まんじゅうは、東京の表参道にあるお店に出していることは、何となく納品書を見て知っていた。だがこの工場の近くのスーパーでも売られていることを知り、一気にテンションが上がった。
島田屋食品の方々と同じ3割引きで買えることを知ってから、利用者さんや私もすっかりここの和菓子のファンになっていたからである。
「G県にはないのか、○○スーパーって」
「無いですね。だからこっちまで買いに来ます!…もう気軽に食べられなくなっちゃうなんて、」
自然と撤退の話しになる。
「あー、…聞いたよね。ごめん、力不足で。本当、申し訳ない」
力不足で、と言ってくれた。この時私は、課長の性格からしてきっと、咲華チームをどうにか完全に切らずに済む道を模索して、上にずっと提案してくれていたのではないかと、勝手ながらに思っていた。彼はきっと、一度懐に入れた人間は何がなんでも守る、そんな人だ。
「生産の都合でしょうから、誰が悪いことでもないですので。…でもそれだけに、何だか悔しい気持ちでいっぱいです。皆んな自分の病気や障害と向き合いながら、毎日頑張ってくれていたので」
チームの皆んなへの想いが先行して、ついこんな事を言ってしまった。課長の本意では無いにせよ、課長は「切る」側の人間だ。沈黙を受けて、はっと課長の立場に立ち返り、まるで責めてるみたいじゃないか…と後悔した。
「また頼めるように頑張るよ」
課長はそう言ってくれた。私は「次」がある可能性を考えていなかったので、課長からそんな言葉を聞けただけで、言葉が次げないくらいに胸が一杯になっていた。
氷川課長と咲華チーム撤退の話しをした2月最終週。そして3月いっぱいで咲華は正式に島田屋食品から撤退する––– その最後1ヶ月。
私は氷川課長から、怒涛のラブコールを受けることになる。