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【ライオンの棲むところ】EP12. 最終日。そして、さよならじゃないよ


 2024年 12月

 職場のパソコンの前で、メモ帳に必死に向き合っている。今日の当番は私と石川さんだけになり、広いフロアに2人きり。ずらっとパソコンの立ち並ぶデスクの海の中に石川さんの後頭部が三列先に見える。
 とくに今すぐに取り掛からなくてはならない仕事もないので、こっそりネタ帳を取り出して考えをまとめていく。
 あれから10ヶ月近くも年月が経ってしまったなんて、信じられない。やり取りも、掛け合いも、考えながら立っている時の重心の掛け方の癖も、目が合った時味わった感情も、全て鮮明に覚えているのに、私は今あの場所にいない。
 自分からチャンスを逃していて、一体いつまでこんなふうに囚われているんだろう。

 でも、囚われている理由は分かっている。
 それは、ちゃんとさよならが出来なかった、
 “させてもらえなかった“せい。

 今度氷川課長に出会う事があったら、言おうと決めている。課長があんなこと言ったから、ちゃんとさよならを言わせてくれなかったから、私は長い時間苦しんでたんです、って。
 
 課長にいつか会えると思って、それを頼りに今まで生きてましたって、面と向かって言ってやるんだ。



 2024年3月 最終週 金曜日

 私はいつも通り作業に入りながら、そわそわと落ち着かなかった。最終日どんな会話になるかとドキドキしていたのに、そもそも課長の姿が見えないのだ。嫌な胸騒ぎがしていた。

 作業に入りながらも、側の配置にいるパートさんや正社員の皆さんに最後の挨拶をする。
 土曜日にシフトが入ることもあるので、今日で最後なんです、と伝えると皆さんあら、明日じゃないの!とびっくりしていた。
 嬉しかったことは、皆さん口を揃えて謝ってくれたことだ。冷凍庫の調子が悪くて生産が落ちたために契約解除になったのであって、私たちチームの能力のせいではないと、チームメンバーに対して言ってくれたのである。

 あるパートさんは、
「また冷凍庫の調子が戻ったらお願いするかもしれないからね、お別れは言わないよ。」
とメンバーの1人に行ってくれたそうだ。その話しを聞いただけで涙が出てきた。


 お昼近くになってほとんどのパートさん、社員さんとお話しする事ができた。午前中の作業もひと段落してきたところで、最後の2ヶ月ほどで私たちと同じG県から通っている話題で仲良くなった市川さんが私のもとにやってきた。

「氷川課長に島田屋に誘われたんだって?」
 どうやら私がスカウトされたことは周知されているらしい。
「そうなんですよ、でも遠いし、保育園のお迎えも行けないから、厳しくて」
「なんとかならないの? 来て欲しいけどね」


 島田屋食品の繁忙期は春の桜餅と5月の柏餅を作る冬のうちなのだが、ヘルプの人員がいなくなる夏から秋も、限られた人間で作業をこなさなきゃいけなくなるため、毎日残業続きになってしまうらしい。
「そうなると定時なんて、一年中無いようなもんだよ。1人でも仕事のできる正社員が増えればかなり違うと思うんだけど…」
 視線が痛い。
 そんな会話をしていると辻元係長までやってきた。
「辻元さん、辻元さんからも言ってくださいよ」
「何?水原さんだけ契約続行するって話しかい?」
 2人に囲まれて、たじたじである。うれしい悲鳴と言うべきか。ただ気掛かりだったのは、チームメンバーには私が島田屋食品に誘われた事は一切話していないということだ。
 チームメンバーだって、長い人は一年半も通っている。島田屋食品の担当から退いた彼らはこれから事業所内での内職作業に従事することになり、当然収入も大幅に減ってしまう。私が声をかけられていることを知れば、私がその話しを受けないにしろ面白くない人も出てくるだろう。

「チームの皆んなには誘っていただいてる事は内緒なんで、もう、その辺で…」
 市川さんも辻元係長も「あ、ごめん」と、一緒に小さくなってくれる。本当にこの社員さんたちは、良い人たちばかりだ。
 
…やだなあ。離れ難くて仕方ない。



 皆さんとこんな話しをしながら、しかし時間は無常にも刻一刻と過ぎていた。作業しながらも、残り1時間でまだ氷川課長と一言も話せていないことにかなり焦っていた。
 …ふと気がついた。
 数十分前から姿が見えないな、と思っていたが、もしかしてもうお昼休憩に入ってしまったのではないか?
 思わず市川さんを捕まえた。

「氷川課長ってもう休憩入りました?」
「へ?…ほんとだ、いないみたいだね」
「私今日、ほんとに一言も話せてなくって。挨拶も出来てないくらいなんです。」
 えっ、と、市川さんも驚いた表情を見せる。
「…何度も誘っていただいたのに、断り続けちゃって。怒ってるから、距離を取られてたんですかね?」

 
 不安から、思わず気持ちを話してしまった。市川さんはいやいやいや、と焦ったように話しを遮る。
「怒るとかじゃないよ!単純に、寂しいんじゃないかな。面倒見いい上に不器用な人だからね。なんて言ったらいいか、分かんないんじゃないかな。それにしても、一言も話せないっていうのはこっちだって寂しいよね」

 市川さんが賛同してくれたことによって気持ちが少し軽くなった。しかし、本当にこのままになってしまうんだろうか。
 気づくと、作業場に入る前の手洗い室に10人くらいの集団が入ってきた。午後のチームが出勤してきたのである。つまり、私たちの仕事は終わったのだ…


 あとはもう、事務所で挨拶する時間しかない。そこで課長がいなかったら、それはもう、”そういうこと“。
 それでさよならってことだ。
 トイレで鏡を見ながら、思い直していた。それはそれで、良いのでは?最後未練がましい思いをするよりも、これで終了、さよなら!と態度で示されただけ。もう、あなたと話す事はありません!と。
 かえって潔いではないか。


 事業所を覗くと、いつも部長さんと事務員さんがいるのだが、部長さんの姿がない。部長さんが別部署の見回りに行っているとのことで、少し事業所の外で待たせてもらうことなった。

 その時、喫煙室からガチャっと氷川課長が出てきたではないか。「あ、課長だ」とメンバーの1人が声を上げる。最終日なのにチームに関わってもらえなかったと、メンバーも少なからず感じていたのだろう。


「お疲れ様です!」と、メンバーが一斉に挨拶した。
「皆さん、今日まで一生懸命やってもらって本当にありがとうございました。次の仕事も頑張ってください」
 メンバー一人一人の顔を見て、丁寧に挨拶してくださった。うるうるしているメンバーもいる。私もそんな様子を見て、思わず泣きそうになる。
「水原さん、台帳持った?」
 不意に今日初めて話しかけられ、動揺する。しかしそう言われてみれば、今日の台帳を貰っていない。台帳とはその日作業に参加するメンバーの名前と体温を記入するもので、 普段は朝提出したら次の出勤日に回収する。次の日までに部長か課長が判子かサインをして、返してくれるのだ。
 いつもは帰り台帳のことは気にしないのだが、もう次は無いのだ。今日の分は今日持って帰らなきゃ、という意味だろう。そこまで気が回らなかった。


 課長に促されるように私だけ事業所に入る。さっきまで事業所内にいた事務員さんが、お昼休憩に入っていて姿が見えなくなっていた。
 私が提出した台帳が朝置いた場所にそのままになっている。課長はその台帳を取り出すと、ポケットからシャチハタの印鑑を取り出して、8人の名前の横に押していく。


「泣くぐらいだったらさ、来れば良いのに」
 私はいつの間にか泣いていたらしい。課長がテイッシュを取ってくれ、マスクをずらして涙を拭く。
「本当に来れないんです、来たいけど」
それだけ言うので精一杯だった。最後に、話してくれた。2人で話すタイミングを、意図的に作ってくれたように感じた。胸がいっぱいだった。


「勘違いしてるかも知んないけど、俺諦めてないから」
 予想外の言葉に思わず課長の顔を見た。

「最後だと思ってないから。来るまで待ってるし、またどっかで会えると思うから。だからさ、さよならは言わないよ」


「ほい」と台帳を私に押し付けると、私の顔を見ずに逃げるように事業所の扉からすり抜けて出ていく。私は慌てて追いかけるような形で外に出た。
 なんて声をかけたら良いのかわかなかった。
 断っているのは私なのだ。しかし本音は、私も本当は、ここに来たかった。今すぐにでも咲華を辞めて、4月から島田屋食品の人間になれたら、どんなに…

 でも新しい生活をスタートさせる自信がなかった。島田屋食品を退き、チームの皆さんが新しい仕事のスタイルにまた慣れていくために、サポートしていかなくてはならない。メンタルも心配だ。


 氷川課長の背中が遠ざかっていく。なんて声をかけて良いかわからなくて、でも私もお別れは言いたくなかった。
「お世話になりました」と、メンバーの誰かが言った。私もそう言いたかった。でも、言葉が出なかった。きっとみんな、変に思っただろう。
 私は無言で課長の背中に頭を下げていた。心の中では、こう伝えていた。
––– 私もいつか、課長とお会いしたいです。
 どんな形でも良いから、いつか––––

 足元に涙が落ちた。
 入れ替わるように部長が現れて、みんなで挨拶した。部長も、
「そんな仰々しくしないで、また頼むようになるかも知れないし。またご縁がある時まで、皆さんお元気で。」


 帰りの車の中で、涙している人、ぼーっと物思いに耽っている人、寝ている人、それぞれの過ごし方をしていた。私は1時間半近くの長い道のりの中で、通い始めから今までの様々な思い出を振り返っていた。運転手でよかったと、心から思っていた。ただ座っていたら、課長の言葉を思い出してもっと泣いていただろう。
 皆さんに声をかけながら、後ろのトランクに乗せていた皆さんへのプレゼントに気付かれていないか、気が気ではなかった。


 事業所に着き、皆さんへお菓子の詰め合わせをプレゼントした。一人一人に感謝の気持ちを伝えて、気づけば自分が一番泣いていた。
 色んな思い出話をして、みんな最後は笑顔だった。笑顔で最終日を終える事ができて、ホッとした反面、皆さんが帰った後冷静になり、改めて課長の言葉を反芻していた。


 言葉の呪縛に苦しむ日々が始まったのである。

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