限りなく透明な空気の中で、想いを綴ってみました 4
いつもと同じ仕事からの帰り道、街中をぬけてしばらくするとカラマツ、白樺、エゾマツ、ナラ、ニレ、などの間を直線の国道が透明な空に向かって伸びている、
いつもと同じ夕暮れ時、いつもと同じ日常、この季節の巡りもいつもと同じ、この星はなんら変わる事なく変化し続けている。そんな中で、ひとり人間だけが、自分たちで作り上げてきた社会の中で、その流れの中で喜怒哀楽を繰り返しながら慎ましく生きている。
このコロナ禍の中で人に伝えるという事について考えてみた。
例えば家族に健康であって欲しい、幸せであって欲しいという思いから、遠慮なく「これするな、あれするな」といってしまう。
が、それはあくまでも自分の経験、考えに基づいた判断基準でしかない。
子供にはある程度必要だがそれには子育ての大きな責任が伴うと感じる。
例えば「アイスクリームは身体に良くない!」と言って食べさせない。「明日学校があるから夜更かしはいけない。」「こんな本読んではいけない。」「学校は必ず行きなさい!」「勉強をしっかりして良い成績を取りなさい!」「病気予防のためワクチンは必ず接種しましょう。」etc.
どうでしょう? いや〜、何か違うな〜、なんだろうな〜? と誰しも思うのではなかろうか。
そうは思ってもついつい肉親には言ってしまう。
それが相手のためだと何の基準で見ているかがポイントになると思うのだ。
いわゆる世間常識と言われてる視点になっていないか、他所様の目を気にしていないか。ここの基準がブレるとおかしな事になると思う。
私はネイティブアメリカンの著作が好きで今まで何冊も読んできたが、いわゆる原住民の人達は多分違うだろうと想像してしまう。
私達が彼らと違うのは、私達は社会システムの中の一人として組み込まれている反面、彼等(現代では違うかもしれないが)は自然に根を下ろし、自然の生きとし生けるものに感謝し、一人の人間を社会システムの中の一人ではなく、宇宙のたった一つの魂というふうにとらえ、尊重しているのかと。
今、コロナ禍で社会全体が情報操作され、真実はみえなくなり、多くの人が世間の空気を受け入れ、身の振り方を考えている気がする。
ここで社会全体がおかしな方向に進んでいても、その流れに逆らわず、みんなと歩調を合わせてつつがなく平和なつもりになっている。
いや、分かっていても流れに逆らうには、体力を使うし、そんな余裕は無いよって人ももちろんいるだろう。
この社会システムは歴史を深読みすると一部権力者が作ってきたものと言っても、頷く人もいるだろう。
反論する人は、いやいや今や世界のほとんどが民主主義だと言うだろう。
民主主義の決定方法はと言うと、多数決が一般的だ。
これが曲者だと思う。
単刀直入に言うと多数の人を自分達の考えに取り込めば勝利する。それにはマスコミを総動員して華やかにお金をたっぷり使えば容易だろう。
今の社会システムをささえる根幹の一つに学校教育があると言える。学校教育では、自分で考えることより、正解を答えることを求められる。
面白い話がある。
国語の試験である文章を読み、作者がどう考えていたかの4択問題で、実際の作者の答えが、その正解と異なっていたと言う話。
考える事をやめてしまった人、仕事で疲れ切って、晩酌のビールと、テレビが安らぎの人もたくさんいるだろう。
そんなこんだで、大多数は社会システムの流れに乗って生きることを選択しているだろうと思う。
昔のネイティブアメリカンは社会システムと縁は無かっただろう。
近代に入り、ヨーロッパから移民達が社会システムを持ち込んだ時、彼らは勇敢に戦い続けたのだ。
彼らは大自然の中でグレイトスピリットに感謝し、命と向かい合い、美しい調和の中で生きていた。
人に伝えるために大切な事、それは、自分が大自然の中で生かされている一つの生命と実感する事と思う。
人々の生活が自然から切り離されている現在、いかにそれを実感できるかはなかなか難しい事かもしれない。
生かされていると実感できるとそこには感謝の念が自然と湧くと思う。
だから、とにかく身の回りの物事に対して意識的に感謝するのも良い手かもしれない。
そしてそれはきっと心地よいに違いない。
まずは道端の名前も知らない小さな花に見入る事から始めても良いのではなかろうか。
春ですね。気持ちがほっこりしますね。
それでは、また。
おやすみなさい。