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遠吠え
「がんばっているのに認めてもらえない」という相談に対して
・がんばりが足りていないからだ
・がんばり方が違うからだ
・結果を出しているか
・「がんばっているつもり」ではいけない
というアドバイスがされることがあると思う。
これらのアドバイスからわかることは「がんばり」は見えないと意味がないということ。
私はいつからか「がんばり」を認められることはないと悟って、誰かに「がんばりを認めてもらう」ことは諦めた。私自身が「がんばって」いてもなかなか伝わらない経験をしてきたからだ。
でも、「がんばり」って何を見て十分か不十分かを判断するのだろう。
もしかして、世の中の人は「がんばりゲージ」みたいなものが他者に見えるような、頭の上に100点満点で表示されるとか、そういう仕様になっているのだろうか。それが出るとしたら、出ない私はバグを抱えているのだろうか。
もしかして、誰でも見えるような表示ではなく、特定の人だけが他人のがんばりを数字で見えるような特殊能力をもっているのだろうか。そうだとしたら、その特殊能力をもっている人は自分が間違う可能性があるとは思わないのだろうか。
私は自分でいうのもなんだけど「コツコツ努力型(遅)」だ。成果が出るまでは時間がかかるタイプだと思う。でも、締め切りは守るし、仕事のクオリティは悪くはないと思う。ただ地味だとは思う。
今までの経験上、同じ仕事をしていても「アピール上手」な人や「カリスマ性」のある人は「がんばっている」「すごい」と評価されるような気がしている。カリスマ性のある人が普通のことを言っても「さすが」と言われるけれど、普通の人が普通のことを言っても、それは「普通」でしかない。そして私のような地味な人間は普通のことを言っても「気づかれない」のだ。
でも、これはタイミングとか声の大きさとか、存在感とかが関係していると思うし、適切なタイミングを図れるのも、存在感を示せるのも能力のうちだと思う。
でも、タイミングはともかく存在感ってがんばりで何とかなるか?と思う。
そもそも、私は気が利かない。
だから、決まったことは出来るのだけど、それ以上を求められたり、アドリブが必要な状況が苦手だったりする。
仕事ってアドリブの連続だという人もいるけれど、アドリブばかりが必要な仕事というのは、結局のところ結果やその過程で起こりえるトラブルを想定した人員配置が出来ていなかったり、仕事分担が出来ていないコーディネートのミスだと私は思っている。現場やその仕事のリーダーの調整能力のなさを各個人のアドリブ力で補えと言われていると思っている。それは別にいい。確かに、不十分な計画の中で臨機応変に仕事ができる人には能力があるのだから。
でも、そのアドリブ力が発揮できなかったり、共有されてもいない・もしかしたら存在さえしていない「想定された結果」にたどり着けなかったことは「がんばりが足りない」からか?と思っている。
自分の「がんばり」が認められるのは、他者の想定した結果に近づいたときと、その結果よりも良い結果になったときだ。でも、大抵の場合は「想定した結果」は共有されない。私はおそらく「がんばり」の評価者は「想定した結果」など持っていないと思っている。
「想定した結果」を共有しているチームでは、「がんばりが足りていない」と評価されるメンバーは出てきにくい。それぞれが「がんばり」、その「がんばり」は適材適所で発揮される。だから「今回もみんながんばったね」と言って仕事を終われる。
もしも仕事を管理する人が、自分の部下や同僚の「がんばりが足りない」と感じているのならば、自分のコーディネート能力や情報共有が足りているのかをまずは見直してはどうかなと思う。
「当然、こうしてくれるでしょ」「言わなくてもわかるでしょ」というのは仕事をする姿勢としては傲慢だと思う。
そんな傲慢さで私の「がんばり」を評価されるなんてばかばかしいなと思う。結局は評価する人の都合の良い結果になるか、評価する人が一目置いている人であるか、が影響しているならば一喜一憂しても意味がないなと思う。
そんなわけで私は他人に「がんばり」を認めてもらうことは諦めた。でも、努力しないわけではない。努力しないと、がんばらないと自分の仕事を全うできないからだ。ゴールが明確な時はそのゴールに辿り着くように努力するし、ゴールが明確でなかったら、自分でゴールを設定するしかない。いずれにしても、私の「がんばり」は他人に見せるためのものではない。私の「がんばり」は誰にも見えないけど、私には見えている。
それでいいことにしている。