予期せぬ空腹 深夜編
お腹が空いた。
夕食は食べたはずなのに。
お腹が空いた。
とりあえず、りんごを半分ほど食べてみる。皮は剥かない。切って4分の1にする。種を除いてさらに半分。りんごの冷気が指先を冷やす。前歯で齧る。サク、と白い実に亀裂が走る。黄色の斑点が目立つ皮、そこに歯がこすれると、ざり、のような、きし、のような、不快な食感がある。安売りされていた割には美味しい。少しスが入っているけど。野菜などに穴ぼこが空いてスカスカになっているのは「スが入る」。漢字だと「鬆が入る」。植物の葉で、白い斑点が入っているものを「ふ入り」と言う。漢字だと意味が分かりやすい。「斑入り」。わたしはいつもこの2つを混同する。
お腹が空いた。
りんごを半分食べたのに。
お腹が空いた。
腹を撫でてみる。夕食がまだ入っているようで、ぷっくり膨れている。胃下垂なので食後は腹が出る。腹以外は痩せているので餓鬼のようだと思う。胃のものは消化しきっていない。それなのにお腹が空いている。しかも頭がふらふらしてきた。空腹時の症状だ。手足が冷たい。これも空腹時に感じるやつ。おかしい、さっきりんごを食べたのに。餓鬼は永遠に飢餓に苦しむという。わたしは餓鬼になってしまったのだろうか。己の罪業について考えようとするが、空腹によって思考が止まる。
お腹空いた。
本格的に料理することを考える。その必要性を吟味する。肉野菜炒めなんかどうだろうか。春キャベツがまだ残っているし、冷凍したしめじもある。この前豆板醤も買った。豆板醤があればキムチを買わなくて済む。キムチは好きだし、たまに食べたくなる。けれどわたしはキムチが食べたくて買っているのではない。ただ辛いものが食べたくてキムチを買うのだ。「キムチが食べたい」と「辛いものが食べたい」は違う。キムチが食べたい気持ちはキムチでしか満たされないが、辛いものが食べたい気持ちはキムチ以外で満たすことができる。欲望のありかを見つめると、自分に対して誠実になれる。
もちろん、キムチを買ってもいい。それで辛いもの欲は満たされるのだから。しかし、わたしもそう頻繁に辛いものを食べたくなるわけではない。だからより長持ちする豆板醤を買う。
せっかくなので、欲が満たされたあとのキムチの様子を見てみよう。一週間、二週間。冷蔵庫のなかでキムチは静かに発酵している。ただ息を潜め、取り出されるときを待っている。冷蔵庫をさまよう手が、ふと、キムチの前で止まる。引き上げられ、蓋が開く。途端、キムチの泡立つ轟音がキッチンに響きわたる。キムチの怨嗟である。キムチの呪詛である。それを一身に浴びて、ああ、わたしの罪はこれかと思い至る。わたしはキムチを冷蔵庫に放置し過ぎたため、餓鬼になったのである。一口食べてみる。箸の上でキムチが泣く。酸味が強い。これはこれで美味しいと思う。
お腹空いた。
今すぐ何か食べたいが、満たされたらもうこの文章が書けなくなる。とりあえず書き上げるまで、お腹は空いたままだ。
お腹空いたなあ。
ピロリ菌がいるのかもしれない。昔、父親の腹にピロリ菌がいたらしい。薬で絶滅させたあと、父がわたしに話してくれた。「ピロリ菌がお前のお腹のなかにもいるかもしれないね。大人になったら、ちゃんと病院に行くんだよ」と。その話を聞いたのは、わたしが思春期のころだった。わたしは思春期特有の万能感から、自分がピロリ菌を保菌しているはずがないと思っていた。青年期特有の不能感に苛まれている現在、自分の胃のなかにピロリ菌がいる気がしてならない。この意味不明な空腹感もピロリ菌のせいではないのか。Googleで検索してみる。あらかた調べてみても、ピロリ菌が空腹感を増長させるという記述はない。
二時である。午前の。
肉野菜炒め。
午前二時の肉野菜炒め。
春キャベツとしめじと豚バラ、新たまねぎ。めんつゆと豆板醤。
野菜の歯ざわり、肉ときのこの旨み。豆板醤のピリ辛。春野菜は炒めると水分が出る。春の水気だ。そこにめんつゆが合流して、つゆだくの様相を呈する。神さまとご先祖さましか見ていないから、お行儀が悪くても大丈夫。皿に口をつけて汁をすする。
ほかほかのごはん。粒が際立っている。豆板醤の辛味、めんつゆの塩味、白米の甘味。口のなかで一体になる。世界でいちばん幸せなカオスだ。名残惜しくも嚥下する。それらが食道を押し入る。胃の中に落ちる音はしない。しかし身体が火照りはじめてくる。箸が往復を続ける。ひたすらに。目が運動を続ける。肉野菜炒めと白米を交互に睨む。
りんごもキムチも餓鬼道も。時間すらも忘れて食べる。
手足の冷たさは無い、もう無い。