男女平等の「平等」とは?――〈男女を平等な存在として扱うこと〉と〈男女を等しく扱うこと〉
この記事の目的は男女平等を「平等」の概念に着目して考えることである。この記事は次のように進む。ⅠとⅡでは、平等をめぐるドゥオーキンの議論の一部を参照する。Ⅲでは、それをふまえて男女平等を考える。Ⅳでは、管理職の人数の男女格差とポジティヴ・アクションをとりあげる。
※ 参考文献は記事の最後に示し、本文では著者名・刊行年・ページのみを括弧に入れて表記する。
Ⅰ.〈人々を平等な存在として扱うこと〉と〈人々を等しく扱うこと〉の区別
「平等」は政治哲学や法哲学における中心的な問題の1つである。様々な哲学者が平等について論争を繰り広げている。中でもロナルド・ドゥオーキンは特に影響力のある議論を展開した法哲学者の1人である。ここではドゥオーキンの議論の一部を参照したい。
ドゥオーキンは平等に関してある重要な区別を提案した。それは〈人々を平等な存在として扱うこと〉と〈人々を等しく扱うこと〉の区別である[注1]。これはどのような区別だろうか。
〈人々を平等な存在として扱うこと〉とは、人々を平等な配慮と尊重をもって扱うことである[注2]。言い換えれば、人々の利益に等しい重みづけをすることである。
例えば、もしも政府が「美男美女はそうでない人よりも尊い」という理由から、美男美女の利益をより重く扱い、そうでない人の利益をより軽く扱ったとすれば、その政府は各市民を平等な存在として扱っていないことになる。
ドゥオーキンによれば、政府は各市民を平等な存在として扱わなければならない。
一方の〈人々を等しく扱うこと〉とは、人々に同じ財や機会などを与えることである。例えば、現代の選挙には「1人1票」という原則がある。この原則によれば、各有権者には同じ1票の投票権が与えられなければならない。これは各有権者を等しく扱う原則である。
以上が〈人々を平等な存在として扱うこと〉と〈人々を等しく扱うこと〉の区別である。
Ⅱ.〈人々を平等な存在として扱うこと〉と〈人々を等しく扱うこと〉の関係
それでは〈人々を平等な存在として扱うこと〉と〈人々を等しく扱うこと〉はどのような関係にあるか。
まず、人々を平等な存在として扱うには、人々を等しく扱う必要がある場合もある。投票権の例でいえば、各有権者を平等な存在として扱うには、各有権者に同じ1票の投票権を与える必要がある。例えば、もしも美男美女にだけ5票の投票権が与えられるとすれば――つまり各有権者が等しく扱われないとすれば――各有権者は平等な存在として扱われないことになる。
しかし、人々を平等な存在として扱うには、人々を等しく扱うのではなく、異なる仕方で扱う必要がある場合もある。〈人々を異なる仕方で扱うこと〉とは、人々に異なる財や機会などを与えることである。ドゥオーキンは次のようにいう。
この例では、深刻な被害を受けた地域の住民はもう一方の住民よりも多くの支援を必要としている。このような場合、2つの地域の住民を平等な存在として扱うには、それぞれを異なる仕方で扱う必要がある。
〈人々を平等な存在として扱うために、人々を異なる仕方で扱う必要がある場合〉はたくさんある。例えば、肢体が不自由な人がそうでない人と同じように移動するには車椅子や介助者などが必要であり、視覚が不自由な人がそうでない人と同じように自分の意思を政治に反映させるには点字による情報の提供などが必要である(齋藤 2008 pp. 251-252)。このような場合、各人を平等な存在として扱うには、各人を異なる仕方で扱う必要がある。
これらの例から分かるように、人々を平等な存在として扱うには、人々を等しく扱う必要がある場合もあれば、人々を異なる仕方で扱う必要がある場合もある。
ドゥオーキンによれば、このように〈人々を平等な存在として扱うこと〉はより根本的であるのに対して〈人々を等しく扱うこと〉は派生的である。平等においてより根本的なことは〈人々を平等な存在として扱うこと〉なのである。
以上が〈人々を平等な存在として扱うこと〉と〈人々を等しく扱うこと〉の関係である。
Ⅲ.〈男女を平等な存在として扱うこと〉と〈男女を等しく扱うこと〉
それでは、男女平等を〈人々を平等な存在として扱うこと〉と〈人々を等しく扱うこと〉の区別をふまえて考えてみよう。
Ⅱで述べたように、人々を平等な存在として扱うには、人々を等しく扱う必要がある場合もあれば、人々を異なる仕方で扱う必要がある場合もある。このことは男女平等についても同じである。
まず、男女を平等な存在として扱うには、男女を等しく扱う必要がある場合もある。投票権の例でいえば、男女を平等な存在として扱うには、男女に同じ1票の投票権を与える必要がある。もしも男性にだけ5票の投票権が与えられるとすれば――つまり男女が等しく扱われないとすれば――男女は平等な存在として扱われないことになる。
しかし、男女を平等な存在として扱うには、男女を異なる仕方で扱う必要がある場合もある。Ⅳでこの1例を見る。
そして、Ⅱで述べたように、平等においてより根本的なことは〈人々を平等な存在として扱うこと〉である。このことは男女平等についても同じである。男女平等においてより根本的なことは〈男女を平等な存在として扱うこと〉である。
しばしば、男女平等は〈男女を等しく扱うこと〉と同一視される。もちろん、投票権の例のように、男女を等しく扱う必要がある場合はたくさんある。しかし、男女平等においてより根本的なことは〈男女を平等な存在として扱うこと〉なのである。
〈人々を平等な存在として扱うこと〉と〈人々を等しく扱うこと〉の区別をふまえると、男女平等について以上のように考えられる。
Ⅳ.管理職の人数の男女格差とポジティヴ・アクション
それでは〈男女を平等な存在として扱うために、男女を異なる仕方で扱う必要がある場合〉とはどのような場合だろうか。ここでは、その例として管理職の人数の男女格差とポジティヴ・アクションをとりあげたい。
女性管理職は男性管理職と比べて非常に少ない。ある調査によれば、2021年の企業の女性管理職の割合は平均8.9%だった(日本経済新聞 2021)。
女性管理職が非常に少ない背景には何があるのだろうか。次のことが指摘されている。
第1に、多くの企業でコース別人事管理制度が導入されている。これは基幹的業務の「総合職」と補助的業務の「一般職」などを設定し、賃金・昇給・研修などに差を設ける制度である。現実にはこれらは性別で振り分けられている(井上 2011 p. 86、大槻 2015 pp. 102-104、川口 2013 pp. 54-57)。
第2に、コース別人事管理制度の有無にかかわらず、管理職につながる研修や配置転換の機会が男性には計画的に与えられ、女性には与えられないことが多い(井上 2011 pp. 86-88)。
第3に、多くの企業の人事は「男性は仕事、女性は家事・育児」という性別役割分業を前提としている。多くの企業が女性には「家庭責任を考慮する必要がある」とか「時間外労働・深夜労働をさせにくい」といった理由から採用・配置・昇進などにおいて男性と差を設けている(川口 2013 pp. 62-65)。
第4に、女性の昇進意欲は男性と比べて低い。その理由として、①昇進意欲の男女格差は現状の男女格差を反映している、②女性は男性よりも結婚・出産・家族の健康などによって職業人生が左右されやすい、③女性は自分が管理職になる姿を想像しづらい、などが考えられる(川口 2013 pp. 66-67)。
女性管理職が非常に少ない背景にはこのようなことがある。
男女平等のためには、管理職の人数の男女格差の解消が必要である。もしもこの格差が放置されれば、男女は平等な存在として扱われないことになるだろう。なぜなら、上記の背景からも分かるように、企業の採用・配置・昇進などにおいて男女が持つ実質的な機会は著しく不平等だからである。さらに、管理職の人数の男女格差は他の深刻な男女格差につながっているからである。社会学者の大槻奈巳は次のようにいう。
つまり、管理職の人数の男女格差は他の深刻な男女格差の要因でもある。これらの理由から、男女を平等な存在として扱うには、この格差の解消が必要である。
労働における男女平等の実現には、ポジティヴ・アクションが必要だと言われている(井上 2011 pp. 89-90、大槻 2015 pp. 108-111、川口 2013 pp. 208-213、辻村 2011)。ポジティヴ・アクションとは「人種や性別などに由来する事実上の格差がある場合に、それを解消して実質的な平等を確保するための積極的格差是正措置ないし積極的改善措置」(辻村 2011 p. i)のことである。議員や役員などの選出にあたって一定の比率を特定の属性の人々に割り当てるクオータ制もポジティヴ・アクションの一種である。
管理職の人数の男女格差の解消を目指すポジティヴ・アクションもある。例えば、勤続年数が長い女性が多数いるのに、男性が管理職の大半を占めている場合に「3年間で女性管理職を20%にする」という目標を掲げて、女性管理職候補者対象に研修を実施したり、女性に昇進試験の受験を推奨したりする措置がこれに当たる(井上 2011 pp. 89-90)。
経済学者の川口章によれば、女性の昇進意欲が高い企業には共通の特徴があり、その1つがポジティヴ・アクションを熱心に実施していることであり、もう1つは女性管理職が多いことである(川口 2011 pp. 67-68)。
また、大槻によれば「現在、国の審議会等委員への女性登用のための目標設置や女性国家公務員の採用・登用の促進が行われているが、企業の女性の管理職登用にも広げていくことが必要であろう」(大槻 2015 pp. 110-111)。
これらのポジティヴ・アクションは〈男女を平等な存在として扱うために、男女を異なる仕方で扱う必要がある場合〉の1例であるといえる。なぜなら、それらは管理職の人数の男女格差解消のために、男女に異なる機会を与える措置だからである。これらのポジティヴ・アクションは、いま男女が持つ実質的な機会が著しく不平等であるからこそ、男女に異なる機会を与えることでその不平等を少しでも解消しようとするのである。
もしも男女平等が〈男女を等しく扱うこと〉と同一視されれば、ポジティヴ・アクションは男女平等に反することになるかもしれない。なぜなら、ポジティヴ・アクションには男女を異なる仕方で扱う措置が含まれるからである。
しかし、男女平等においてより根本的なことは〈男女を平等な存在として扱うこと〉だと考えるならば、現状ではポジティヴ・アクションが必要だということが明確になる。なぜなら、そう考えることによって「男女を平等な存在として扱うには、男女を異なる仕方で扱う必要がある場合もある」ということが明確になるからである。
おわりに
この記事の要点をまとめよう。男女を平等な存在として扱うには、男女を等しく扱う必要がある場合もあれば、男女を異なる仕方で扱う必要がある場合もある。男女平等においてより根本的なことは〈男女を平等な存在として扱うこと〉なのである。
読んでくださって、ありがとうございました!
【追記】2023年11月22日、記事のタイトルを変更した。
注・参考文献・参考ウェブサイト
[注1]ドゥオーキンは、言い回しの違いはあるが、複数の文献でこの区別を提案している(ドゥウォーキン 1986 pp. 304-305、2001 pp. 65-66、2002 p. 19、ドゥオーキン 2012 pp. 256-258)。
[注2]「配慮」と「尊重」とは何か。ドゥオーキンによれば、人々を配慮をもって扱うとは、人々を「苦痛を感じたり失望感を抱いたりすることのありうる人間として」扱うことであり、人々を尊重をもって扱うとは、人々を「自分たちがどのような生活を送るべきかについて理性的な観念を形成し、そのような観念に基づいて行動することのできる人間として」扱うことである(ドゥウォーキン 2001 p. 65)。
井上輝子 2011『新・女性学への招待――変わる/変わらない 女の一生』(有斐閣)
大槻奈巳 2015「働く――労働におけるジェンダー格差」(伊藤公雄/牟田和恵編『ジェンダーで学ぶ社会学』全訂新版 世界思想社 pp. 96-112)
川口章 2013『日本のジェンダーを考える』(有斐閣)
齋藤純一 2008「平等」(今村仁司/三島憲一/川崎修編『岩波 社会思想事典』岩波書店 pp. 250-254)
辻村みよ子 2011『ポジティヴ・アクション――「法による平等」の技法』(岩波新書)
ドゥウォーキン、ロナルド 1986『権利論』(木下毅/小林公/野坂泰司訳 木鐸社)
ドゥウォーキン、ロナルド 2001『権利論Ⅱ』(小林公訳 木鐸社)
ドゥウォーキン、ロナルド 2002『平等とは何か』(小林公/大江洋/高橋秀治/高橋文彦訳 木鐸社)
ドゥオーキン、ロナルド 2012『原理の問題』(森村進/鳥澤円訳 岩波書店)〔Ronald Dworkin 1985 A Matter of Principle (Harvard University Press)〕原著については書籍ではなく Google Books のプレビューを利用して参照した。〈https://books.google.co.jp/books?id=FUz9VVTIQakC&vq〉(最終閲覧日 2021年9月9日)
日本経済新聞 2021「企業の女性管理職、過去最高も8.9% 21年、民間調査」(2021年8月23日)〈https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC171H30X10C21A8000000/〉(最終閲覧日 2021年9月9日)