タイムスリップした俺と、細胞の新陳代謝
人の細胞は数年で全て入れ替わるらしい。
調べればそうでもないとか、2ヶ月で入れ替わるとか、色々と諸説あるのだけれど、まあ数年経てば入れ替わるってことは正しいはず。
日々、細胞は更新されていて、
・皮膚は 28日
・胃腸は 40日
・血液は 127日
・骨や肝臓、腎臓は 200日
というスパンで新陳代謝が起き、新しいものに変わっていく。
脳神経や心臓など、一部細胞が入れ替わらない器官もあるらしいが、とにかく5年前も経てば、「記憶はそのまま。でも物理的には別物のジブン」が出来上がってるのだろう。
今から5年前、タイにきた。
もう、自分がソコソコの期間タイに滞在していたことすら忘れかけていた気がした。
それもそうかもしれない。俺の細胞はとっくに何周も入れ替わっていて、現時点のマイボディパーツでタイの経験があるのは、心臓と膝に埋め込まれっぱなしのボルトぐらいだ。
それでも、全身の細胞レベルで感じた「懐かしい」という感覚。
実に4年半ぶりにこの地に降り立った瞬間、東南アジア独特の生臭さで一気に記憶が蘇ってきて、間髪入れずにうるっときた。
街並みを見渡せば、常に大渋滞の国道、屋台、野良犬、乞食…東南アジアでよく見る発展途上国の側面と、それと真逆にあまりにも美しく整備された5つ星ホテル、マンション、ショッピングセンター。
ニューヨークやロンドンにも負けないハイソな一面と、アフリカでももうちょいマシじゃないの?って貧しい部分と、同じ視野の中に両極端な絵が広がるバンコクは、まさにカオスというのに相応しく、その残酷な落差の中にただただ身を委ねることも、また独特な魅力がある。
空港からは、迎えが来るわけでもなく、タクシーでもなく、電車で移動した。
久しぶりに来たのに、地図を見れば何のキップを買うのかわかるのが、ちょっと誇らしくて不思議だった。
調べると、最初に俺がタイに来たのは2013年の11月らしい。
日本では地域リーグぐらいのレベルだった俺が、タイリーグでプロ契約することを目指してやってきたわけだけど、実力もないのに本当に尖っていた。
髪は金髪、とにかくステップアップしたいという欲だけはナカタかホンダかマルヤマかってぐらいで、その意識と裏腹に、ピッチで実力を表現する能力はかなり乏しかった。
怪我で2年のブランクがあって、それは絶対言い訳にしたくなかったけれど、怪我以外の部分でも全力を出しきれず、そもそもサッカーが下手な上に、人間的にもキャパが小さいと感じる苦い日々が続いていた。
そう、サッカーはいつも自分の足りなさを浮かび上がらせてくれる。
ダメな日々が続いても、ずーっと粘っていた。
最初にいったチームがダメで、2個目、3個目、4個目…と不合格が続いていく。
そうやってやりながらタイに来て1ヶ月もすると、握りしめていたなけなしの金も尽きてきて、当初契約していたコンドミニアムの契約も終わる。契約更新するお金は当然なかったから家なき子となってしまった。
その家なき子を助けてくれた人はたくさんいて、ひとりが和田さん。
和田さんはタイでプレーしていたゴールキーパーで、前シーズンに所属していたクラブは契約満了になり、新チームを探していた。
立場は俺と同じなので、何チームかのトライアウトを一緒に受けた。
8歳ぐらい離れた生意気なキンパツを、弟のように可愛がってくれて、ごはんに連れて行ってもらったり、タイ語を教えてくれたり、一緒に田舎のチームのホテルに泊まったりした。
当時和田さんと付き合ってたタイ人の彼女さんも俺にすごく良くしてくれて、5年前はクリスマスなのにお金もなく寂しい俺を労って、マクドナルドをご馳走してくれたりした。
歯が痛くなったとき、日本人向けの病院はすごく高いから、ローカルの安くて腕が確かな歯医者さんにも連れて行ってくれたりした。本当に良い人だ。
実は、その彼女さんと和田さんは先日タイで結婚式を上げて、俺も披露宴に呼んでもらった。
出会ったのは5年前だという話を聞いて、俺がタイにいない間も、タイではちゃんと時間が流れてた事をなんとなく感じて、ちょっと感慨深かった。
異国で家がないってのは、結構キツイ。
その上、金もないとなると、本当に不安でいっぱいの毎日だ。
和田さんの彼女さんにも助けてもらったし、サッカー選手にも助けられたし、実は出逢ったばかりのタイ人の女の子の家にも数日転がり込んだ。まさに“ヒモ”だったと思う。苦笑
知り合ったばかりの韓国人・ジンくんの家には大きいスーツケースも置かせてもらった。
そうやって誰かの家をはしごしながら粘る中、ひとつのクラブと契約できそうになった。田舎のクラブだった。
不器用に生きた軌跡の果てに
そのクラブは結構な田舎、外国人選手もタイ人選手も、全員タコ部屋に押し込まれ生活するキツめの環境だったけど、みんなで仲良く前向きに頑張ってた。
実はこういう時、粘ってることをポジティブに捉えない場合もある。
怪我から復帰したばかりだし、まだサッカー選手として未熟ゆえに、日本のクラブでもう少し経験を積んだり、スキルアップするほうが大事だと考える人も居て、結構たくさんの人から
「一回帰ってきたほうが良い」
「そのまま粘って仮に契約できてもお前に成長のポテンシャルはない」
「そんなリーグでプレーできたからって何か意味あるの?」
と、辛辣なアドバイスをもらった。
言ってることはよくわかったし、若い選手のサポートもするようになった今となっては、同じようなことを伝えるときもある。
というか、周りの皆さんのいう通り、目標に執着しすぎているときって、残念ながら結果は出にくい。
ただ、当時の俺は未来云々の話より、そろそろ海外でプレーしないと人生どうしようもねえだろって感じで、とにかくどこかへ所属することを渇望する毎日。理屈では言われたことを理解できたとしても、ハートは全く動かず。
どれだけダメと言われてもトライを続けることしかできなかった。
故に必死で、どんな環境でも自分をアピールしないとと、こんな感じで仲良くやってた。
タイ語の歌なんかわかんねーよ
このクラブの監督には結構評価されていたみたいだった。
献身性と、チームメイトと仲良くやってたところをよく見てくれたと思う。
それで、とある日の朝、監督から代理人に「丸山と契約したい」という電話が入ったらしい。
しかし、そのことを知らないまま臨んだその日の練習で、俺は無理やりゴール前に飛び込み、足首を怪我してしまう。音がバキッと鳴って曲がった瞬間、しばらく動けないことを察した。
ショックすぎて、そのままバンコクに荷物をまとめて戻った。
その姿は結構可哀想な感じだったのだろう。
契約の話があったことは、直後には代理人からは伝えられることはなく(気を遣ってもらっていたと思う)半年後、スリランカでプロ契約した際に教えてもらうことになる。実は契約できてたんですよ、と。
俺はプロとしてプレーできたかもという可能性を知ることもなく、バスに揺られていた。
韓国人と日本人二人暮らし。
バンコクに戻ると、スーツケースを置かせてもらっていたジンくんの家にとりあえず泊めさせてもらった。
ジンくんは韓国語に加えて、英語、タイ語、日本語を操る賢い人だ。
「3日以内にどこか行くよ」という俺を、「怪我が落ち着くまではうちにいていいよ」と優しく迎え入れてくれた。
住んだのはバンコク内のトンローという場所。
どういう場所かというと、日本でいうと六本木とか赤坂とか白金高輪とか、そういう位置づけの街だ。
家賃は高くて、良い感じのクラブが並んでて、おしゃれなものがたくさんあって、タイ人ではなく外国人が多く住んでいる。
そのエリアの、ジムやプールがつくコンドミニアムにジンくんは住んでいた。
ジンくんは、チュラロンコーン大学という、タイで最も賢い大学へ入学することを目指していて、4ヶ国語が使えて、一番良い大学を出れば、韓国でまあまあの大学を出るよりよっぽど良いんだとよく話していた。
本当は日本の専門学校で勉強することを考えていたけど、3.11のタイミングでその話が急遽なくなり、タイで大学に入ることを目指していた。
つまり彼は浪人生。勉強しなければいけない時期に、親戚でも何でもない日本人の俺を家に泊めてくれた本当にイイヒト。
ジンくんは本当に色んなことを教えてくれた。
韓国の兵役のこと、韓国人から見た日本のイメージのこと、ネットで日本を批判してる層はごく一部だということ、でも日本はライバルだと思ってること。
何の話のときだったか。「日本は島国だからしょうがないよ」って俺が言ったら、
「何言ってるの!韓国だって島国だよ!どうやって陸で中国や違う国に行くんだ?」
って怒られた。この話は結構面白いから、未だによく使わせてもらってる(笑)
そこからはただタイに住んだだけだった。
ジンくんの家に戻ってからは、正直サッカーどころではなかった。
病院に行ったら最初車椅子を出されて、ダサいからって松葉杖にしてもらったけれど、足首はパンパンに腫れており、ちゃんと歩けるようになるのにも、体感覚で1ヶ月ぐらいはかかりそうな感じだった。
ただ、こっからの俺はめげることなく、むしろさらにメチャクチャで、知り合う人たちにサッカー関係者を紹介してもらって「復帰したら絶対いいプレーするから契約してくれ」みたいな話を持ちかけ続けていた。しかもお金なんてなかったから仕事としては頼めない。
今思えば狂気の沙汰というか、よくそんなこと言ってたなと、自分勝手な自分の行動にゾッとする。
そうやってプレーができなくなっても契約の可能性を探っていて、とりあえずトンローにずっといたんだけど、やっぱりストレスは溜まるから、よくブーたれていた。
でも、そんな俺にジンくんはいつも優しくしてくれた。
ジンくんはプレイボーイで結構モテたから、しょっちゅうクラブに出かけていく。
俺は夜の店もお酒も苦手だったけど、渋々一緒について行って、一番安いウイスキーを限界まで薄めてチビチビ飲んでいた。
そうやって時間を潰していると
「マル!今日オレは女の子連れて帰るから、お前も女の子捕まえないとマクドナルドで寝ることになるぞ!」とよく言われていた。
実際マックで寝たり、そうならずに済んだりしたけど、この辺の話は結構面白い話がある。でもまた今度。
また、英語が嫌いで、be動詞もよくわからない俺に、イチから英語を教えてくれた。(それまではコミュニケーションはマジでノリだけでやってきてた)
ちゃんと本屋さんで教科書を買ってきて、1日2時間ぐらい、付きっきりでレッスンしてくれた。家庭教師レベル。自分も浪人生なのに。
スーパーで韓国の食材を買ってきて、韓国料理を振る舞ってくれたりもしたし、当時はソチ五輪の真っ只中で、日本と韓国が出てくる度に2人で応援した。フィギュアスケートだけは韓国人グループの人たちと一緒に見たから、キム・ヨナの優勝で爆発するジンくんたちを横目に、真央ちゃんの銀メダルをひっそりと見届けた。
とにかく、来る日も来る日もジンくんはいつも一緒にいてくれて、まさに兄貴だった。
ただ、ずっとバンコクにいるので、ジンくん以外とも交流が増えた。
サッカーばっかりしてた時には気づかなかったけど、この国には日本人がたくさんいることも気づいた。
現地の留学生や駐在員の人たちの友だちが増えて、サッカーが出来ないなりに結構楽しんでいたと思う。
ただ、「俺、タイにサッカーしに来たんです」って言いながら、サッカーが出来ない毎日に、2年間リハビリしてたときと同じじゃんって気分になった。
またかと思ったけど、復活したら絶対プレーするから契約してくれ!っていう謎理論が心の支えで、実際にタイでかなり実績を残している日本人選手の助けで、その思惑通りに話が進んでいったこともあった。
そういう経験は、同じことはもうしないけど今の人生にも活きてるなと思う。なにもないときこそ熱量って大事だ。
てな感じで親友も出来たし、兄貴分も出来たし、貧乏な経験も、ハイソな体験も、全部した。
書くのめんどくさいけど、その後数年続くまあまあな大恋愛のはじまりでもあった(笑)
タイムスリップ。
そういう記憶が、4年半ぶりに降り立った瞬間に走馬灯のように流れていく。
言ってしまえば俺の細胞のほとんどはバンコクにはじめて来たわけで、ハードとしてはプレステ3がプレステ4になったみたいな状況。
でも、そんな細胞たちに脳神経が過去メモリーを伝えているような感じがして、ビリビリとした感覚になった。
26歳のバンコクで、宿はまたしてもトンローだった。
見覚えのある町並みに、すごく興奮して、ちょっとうるっときた。
人間はタイムスリップする技術をまだ完成させていていないけれど、もしタイムスリップが可能だったら、こういう気持ちになるんだと思う。
まさにノスタルジック。その場所に来なければ思い出せないことを、肌身で体験することで全てがサルベージされていく。
嬉しいし興奮するし楽しいし、ちょっぴりさみしい。
自分が歳をとったことも再確認してしまう。
久しぶりに、ロティーが食べたくなった。
ロティーはアジア諸国ではよく食べられていて、小麦粉を伸ばして焼いたり、揚げたりしたもの。
スリランカやインド、ネパールでもよく食べたけど、それらの国のロティーはカレー味だったり、肉が入ってたり、要は食事。サンドウィッチみたいな感覚で食べるものだ。
でもタイのロティーはスイーツ。
揚げたクレープみたいな感じのやつに、バナナを挟んで、砂糖とか練乳をかけて、最後はサクサクと包丁で小さくする。大体60円ぐらい。
小麦粉を油で揚げて、練乳かけて、砂糖振って、バナナも入ってるから結構なカロリーオバケだ。でもうまい。
昔もこれが好きでよく食べてた。
ロティーのお店は、だいたい屋台がどこかの路上に出ているから、食べたければ街を少し歩けばいい。
俺は見つかるまで歩こうと、トンローの駅から通りを真っ直ぐ進んでいく。
しかし意外と見つからない。5年前に比べて、屋台自体が減っているように感じた。聞くと、景観のために屋台は少しずつ減ってるそうだ。
2kmぐらい歩いた時だった。
高級車のディーラーがある路地を曲がったところにロティーの屋台をやっと見つけた。
ジンくんの家の前だった。
(ロティーの屋台。奥に見えるのがジンくんのコンドミニアム)
トンローの町並みで十分ノスタルジーを感じていたが、ここはさらに色んなことを思い出した。
荷物を置かせてもらっただけのはずが、何ヶ月も居候して、良いこともたくさんあったけど、やっぱりサッカーができなかった時期とまんま重なるから、思い出のほとんどはグレースケール。
だけど、当時と景色はほとんど変わっていなくて、改めてカラーの記憶に塗り替えられていった気がする。
屋台のおっちゃんにロティーを作ってもらって、食べながら周りを歩いた。
マックスバリュー、居酒屋街、ゴミ置き場、全てが懐かしかった。
人生、長く生きてれば、すべての場所や記憶が思い出となっていくんだろう。良いことばかりじゃなかったここでの生活も、今となればユーミンの卒業写真でも流しながら歩きたい気分だ。
何より、ジンくんに優しくしてもらったことを思い出した。
最後にここにいた時は、日本に帰る直前だ。
俺はお別れするのが苦手だから、ヘラヘラしながら、「ういーっ!じゃあ帰るね。また来るよ!」なんて言いながら、コンドミニアムの下に呼んだタクシーに乗った。
ジンくんは別れる直前、「少し前までは日本人とこんなに仲良くなるなんて思ってなかった。マルは本当の兄弟だよ」と言ってくれた。
俺だって韓国人とこんなに仲良くなるなんて思ってなかったよ。
ジンくんがもし困ってたら絶対に助けるし、国とか政治とかそういうのを超える仲になったと思う。
握手して、タクシーに乗って、バタンとドアを閉め、車が発車する。
見送るジンくんが窓から消えた、ちょうどその瞬間から涙が溢れてくる。
俺は涙もろいからよくウルっと来るけど、ジンくんにもうしばらく会うことはないと思うと、本当に本当に悲しくなった。
このロティーの屋台は、そういうことを感じていた瞬間の道だ。
そんなことを思いだしながらロティーをつまんでいると、なぜだか屋台で買ったこのロティーが、すごく身体に悪いものに感じてきた。
こんなに暑いのに、常温じゃ全然溶けてなかったバターみたいなやつ、油、きっと全部が体に良くない脂質だろう。
小麦粉も、練乳も、いつのモノかなんてわからない。
でも、まあいいや。
きっと、次来る頃には、また俺の身体も新しい細胞に入れ替わってて、再び懐かしく感じるはず。
それに今日ロティーを食べたことが、また今日のことを思い出すきっかけになる。
今日のことを思い出せば、ジンくんと別れた時のことや、バンコクでのたくさんの思い出も、またついでに思い出す。
俺はおかわりを頼んだ。
2つ食べておけば、記憶がもっと鮮明に残っていて、いつまでも覚えていられるような気がした。忘れたくないから3つ目も食べようかって思った。