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【自伝小説】最南端の空手フリムン伝説|著:田福雄市@石垣島|第12話 隠忍自重編(2)

【安代ばあちゃん】

フリムンの育ての親、安代ばあちゃんが永眠した。

2021年4月6日午前3時(享年97歳)の事である。

後年、ほぼ寝たきりとなり、日に日に痩せ細っていく祖母の姿を見ながら、どれだけ辛い人生を送って来たのだろうかと考えない日はなかった。

幼い娘を病で失い、その後に働き盛りだった長男(フリムンの父)にも事故で先立たれ、そして三男も病で失った祖母。
我が子に先立たれるという想像もできないような苦痛を、一度ならず三度も経験。

大好きだった祖父にも先立たれ、それでも残された家族の事を思い気丈に振舞ってきた。
そんな祖母を、子や孫や曾孫たちは愛して止まなかった。

そしてギリギリ、本当にギリギリで玄孫にも会う事ができ、人生最高のフィナーレを送れたと信じたかったフリムン。

終(つい)ぞ、親孝行らしい親孝行を出来ず終いとなった己の不甲斐なさに、そう信じる事で自らを慰めるしかなかった。

幼い頃から、両親の居ないフリムンを我が子以上に溺愛してくれた安代ばあちゃん。

お陰で寂しさを感じることなくスクスクと育ち、逆に周りを明るくする天真爛漫な性格の持ち主となった。

これも全て安代ばあちゃんのお陰であった。

笑うことが大好きで、何をやっても笑ってくれる祖母を笑わすことが生き甲斐だったフリムン。

そんなフリムンの娘たちや従兄弟も大のばあちゃんっ子。
皆に愛され、いつも笑ってばかりいた安代ばあちゃんに、もう会うことはできない。

それでも、天国には愛するじいちゃんや子どもたちが待っている。
悲しむよりも、笑顔で見送ってあげたいとフリムンは思っていた。

祖母から受けた無償の愛は、今でも皮膚感覚で細胞の隅々にまで残っている

葬儀の日、多くの参列者が訪れ悲しみに暮れた。

フリムンの同級生や道場生を含め、友人知人や空手関係者が大勢駆けつけた。

そして、生前祖母にお世話になった親族や友人知人も県内外から駆け付け、祖母の人柄が垣間見れた告別式となった。

遺影の笑顔が参列者の悲しみを誘う
参列者に挨拶する喪主のフリムン

実はお礼の挨拶の際、原稿にはあの小学生時代の「おっぱい事件」の事も書かれてあった(笑)

笑う事が大好きだった祖母を見送るには、皆を笑顔にするのが一番だと思っていたフリムンだが、祖母との思い出が走馬灯のように浮かび、その目論見は未遂となった。

読み始めると急に嗚咽が止まらなくなり、笑いを取るどころか、真面目な部分を読み切るので精一杯となったフリムン。

その事を未だ後悔しているという。

笑いの絶えない告別式にするというその夢は、自分が旅立つ際にきっと三人娘が叶えてくれるだろう。そうフリムンは信じる事にした。

いやマジで(笑)

納骨のためお墓に集合する親族

ちなみに祖母の“お気に入りの服と杖”は、今でも仏壇の横に飾られ、家族の幸せをずっと見守り続けている♡

お気に入りの服と杖で笑いを取る孫や曾孫(笑)
何か足りない事に気付いた玄孫の仕業(笑)

こうして告別式や納骨を済ませ、全ての儀式を滞りなく終えた後、全国から集まった親族でお別れ会を開催。

流石に自宅には入りきらないので、道場にて祖母との最後の時間を楽しんだ♡

お別れ会の様子
苦労を掛けたカミさんに懺悔中のフリムン(笑)
子や孫や曾孫のために、長い間お疲れ様でした♡
後は天国で皆んなと仲良く待っててね♡
それまで暫しの間バイバイ(^^)/~~(いやメッチャ可愛いんですけど♡)

【最後の賭け】

第1回大会から途切れることなく25年間続いた八重山地区大会であったが、26年目にして初めて中止せざるを得なくなった。
収束の見えないコロナ過での苦渋の決断により、その後3年間もの空白を余儀なくされる。

それにより、入門から一度も試合を経験した事のない道場生が徐々に増え始め、中には試合そのものを見た事のない生徒さえ存在するようになった。
不憫に思ったフリムンは、せめて審査会や交流試合だけでもと奔走。子どもたちに経験を積ませようと必死に走り回った。

そんなフリムンに、引退から1年半の時を経て1枚の通知が届く。

その内容は、翌々年の2023年に開催が決まった「世界大会」の日本代表選手を決める全日本大会を、半年後の2022年1月に開催するというものであった。

その申込書を見た瞬間、フリムンの全身に電流が走った。

コロナのお陰で1年延期になった世界大会。
その間、医師の指示に従い体調もかなり良くなっていた。

もしかして、これは神様から頂いたチャンスかも知れない。

もし、予定通り開催されていたなら間違いなく間に合わなかったからである。

「せっかく神様から頂いたチャンス」
「これを逃したら死ぬまで後悔する」

そう思ったフリムンは、最後の賭けに打って出た。

しかし、流石にこれだけの重大案件を独断で決めるわけにはいかない。最低でも師範や主治医、そして家族との話し合いは必要だ。

そう思ったフリムンが最初に連絡を入れたのは、当然の如く師範であった。
県本部事務局を通じ、予選の全日本大会に出たい旨を師範に伝えると、「医師の承諾が得られるのであれば」という条件付きで許可を頂いた。

次に説得したのはカミさんであった。

「どうせまた言うこと聞かないんでしょ」
「医者がOKなら出てもいいよ♡」
といつもの如く、海よりも深い愛情タップリな答えが返ってきた♡

後はドクターの判断に委ねるだけだが、このまま指を銜えながら運を天に任せても良い答えは得られないだろう。

そう思ったフリムンは、主治医の首を縦に振らせるため、死に物狂いでありとあらゆる手段を講じた。
勿論、指示された命令は全て飲み込むつもりで、である。

こうして様々な決まり事を確約し、遂に現役復帰まで漕ぎ着けたフリムン。

ここまで必死になったのは、年齢的にも肉体的にも、もう後が無かったからである。

ただし、準備期間は僅か半年。
先行き不安しかなかったが、希望の方が遥かに上回っていた。

そう、僅か数週間前までは、もう二度とあのマットには立てないと信じて疑わなかったからである。

フリムン55歳の時である。

生活習慣の改善により血圧も安定(before-after)

【鞭打】

1年半という長きに渡り、医師より打撲や骨折を伴う“組手”だけは厳禁だと強く言われてきた。
血圧の薬の他に、血をサラサラにする薬も服用していたからだ。

その薬のせいで血が止まらず、まかり間違えば大事に至るとの事であった。当然、それは内出血でも同じこと。

そういった理由で、退院後は組手どころかミット打ちさえも行っていなかったフリムン。

よって体力はかなり落ちていたが、気持ちだけは現役時代と何ら変わらず燃えに燃えていた。

こうして始まった1年半ぶりの選手稽古。
しかし、余りの感覚のズレにフリムンは愕然とした。

相手の攻撃に体の反応が追い付かず、ゼロコンマ数秒ほど後れを取るのだ。これは競技者としては致命的な数字だ。

そして、その感覚のズレは反射神経のみならず、打撃によるダメージにも表れた。何と全身の“皮膚”が打撃に耐えられず、どこを叩かれても死ぬほど痛いのである。

そう、それは叩く場所を選ばない、あの「鞭打」そのものであった。

皮膚そのものにダメージを与える秘技「鞭打」

人体は捨て置くと、これほどまでに脆くなるのか?

僅か1年半という年月で、打撃に対する耐久力が格段に落ちていた事に衝撃を受けたフリムン。
事を急がねばと自らを追い込んだ。

こうして以前から取り組んでいたクロスフィットにも更に力を入れ、苦手なランニングや階段ダッシュ等も再開。

もちろん、年末年始も返上して肉体改造に集中し、失ったものを取り戻す作業に没頭した。

フィジカルトレ―ニング風景

それからアッと言う間に半年の月日が流れた。

準備期間としてはかなり短いが、またあの青いマットに立てるのだから文句は言えまい。
それに、全日本で四強に入らなければ世界制覇の夢はその時点で完全に潰える。

ようやくここまで辿り着いたのに、ここで諦めたら本末転倒である。これくらいのブランクなど持ち前の根性で覆してやる。

そう自らを奮い立たせ、決戦の地へと向かった。

次週より新展開!

「最後の聖戦編」に突入!

乞うご期待!!


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この記事を書いた人

田福雄市(空手家)
1966年、石垣市平久保生まれ、平得育ち。
八重山高校卒業後、本格的に空手人生を歩みはじめる。
長年に渡り、空手関連の活動を中心に地域社会に貢献。
パワーリフティングの分野でも沖縄県優勝をはじめ、
競技者として多数の入賞経験を持つ。
青少年健全育成のボランティア活動等を通して石垣市、社会福祉協議会、警察署、薬物乱用防止協会などからの受賞歴多数。
八重山郡優秀指導者賞、極真会館沖縄県支部優秀選手賞も受賞。


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