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【自伝小説】最南端の空手フリムン伝説|著:田福雄市@石垣島|第13話 最後の聖戦編(2)

【イップス】

これまでの人生で、このような精神状態に陥った事は一度もなかった。

世界大会の追い込みも残り半年を切った辺りから、プレッシャーで圧し潰されそうになっていたフリムン。

これまでは八重山代表、もしくは沖縄県代表というプレッシャーであったが、今回は日本代表である。

その重圧たるや、想像を遥かに超えるものであった。

同じ立場に立って初めて、世界と戦っているアスリート達のメンタルがどれほど強いかを伺い知ることができた。

そして本番まで残り4か月を切った年の瀬、休み返上で毎日のように肉体を酷使してきたフリムンの体が、ある日突然動かなくなった。

もちろん、肉体的疲労や心的疲労もあったが、そうではない何か…そう…何かが起きていた。

これは後に知ったことだが、スポーツ選手などが陥り易いという、あのイップスであった。

※『イップス』とは極度の緊張や精神的なことが原因となって、筋肉がこわばって体が思うように動かなくなり、今までは普通におこっていたスポーツ動作に支障をきたしてしまう運動障害のことである。

何が起こったのか訳が分からず、フリムンは急に道場に行くのが怖くなっていった。

体が言うことを利かないため、常に集中力を欠き、誰とスパーをしてもボコボコにされた。

稽古中は常に倦怠感に襲われ、組手中に呼吸を忘れたり、睡魔に襲われるなど、足掻けば足掻くほどパニック状態に陥っていった。

そんなある日、自宅で家族と談笑していた時のことである。

「最近、体がキツくて思うように動かないんだよね」
「何もかもが億劫になって、ずっと寝ていたいさ」
「なんで世界大会に出ようと思ったんだろ?」
「今頃になって後悔してるさ

何気にフリムンが口にした弱気な発言に、三女が返す刀でこう告げた。

「はあ?なに言ってる?」
「世界大会とかどれだけ羨ましいか分かってる?」
「自分でやるって決めたくせに甘えんなっ」

返す言葉がないほどのド正論を突き付けられ、フリムンの中で何かが弾けた。

「だよな、スマン、オトンどうかしてた…」

壁を見つめながら うわの空で謝罪したフリムンであったが、心の中は既に臨戦態勢。

気が付けば、直ぐにでも戦えるモードにシフトチェンジしていた(早っ)

試合直前に父親をおちょくる三女。末っ子の特権である(笑)

翌朝目覚めると、昨日までの倦怠感は何処へやら。

心の奥底から沸き起こる咆哮が止まらなくなり、全身からオーラが放たれているような気がしてきた。

人の肉体を突き動かしているのは、骨や筋肉ではなく、もしかして「気」なのかも知れない。

そんな事を、これまでの30年間で幾度となく体験してきたが、今回のそれも間違いなく「気」の成せる業であった。

まだ薄暗い朝練の最中、イヤホンから流れくる「竹原ピストル」の応援歌がいちいち胸に突き刺さる。

全身に広がる筋肉痛と打撲、そして30年に及ぶ“クッソ熱い思い”が交錯し、走っていても自然と涙が溢れ出てくる。

どんなに打ちのめされても
どんなに叩き伏せられても
お前は必ず這い上がってきた
お前は強い
お前は無敵だ
俺はお前を信じている
お前は俺を裏切った事など一度もない
だから心の底からお前を信じる
お前を止められる奴なんかいない
お前が最強だ
お前がチャンピオンだ

こうして失い掛けていた自信を呼び覚ます作業に全集中しながら、わき目も降らず走り続けてきたこの道程は、決して間違いじゃなかったと自らを奮い立たせた。

この景色をバックに走りながら聴く竹原ピストルは…アカン(◞‸◟)

ちなみにイップスに陥っている間も、フリムンは1日足りとも稽古を休む事はなかった。

やる気があってやらないよりも、やる気がなくてもやる方が確実に前に進むからである。

そして、後々この“逃げなかった”という既成事実に救われる時が必ず来ることを、フリムンは過去の実体験で知り尽くしていたからである。

本やネットや聞いた話しで得た「机上の空論」ではなく、れっきとした自らの失敗による実体験で。

【閃光】

これからフリムンが挑む相手は、決して世界の強豪だけではない。

これまで積み上げてきた過去との戦いでもある。

長きに渡り、積みに積み上げた諸々を一発でひっくり返すような戦い。

世界の頂点に立つという事は、そういう事なのだ。

そんなどえらい偉業に、手を伸ばせば届く所まで漸く辿り着けたのだ。

もう足踏みしている暇などない。

フリムンは更にギアを2~3段上げ、燃え尽きる寸前の閃光が如く、最後の力を解き放った。

ちなみに下に挙げたのは、世界戦に向けた主な練習メニューだが、スイッチの入ったフリムンは、これを休むことなく継続。

56歳という年齢には多少キツい内容だが、減量も兼ねながらシッカリと自分との約束を守り通した。

【世界大会に向けた主なメニュー】
5:00(起床)
5:30~7:00(朝練)
・腹筋(出発前100~300回)負荷10kg
・ランニング(運動公園外周)
・腹筋(到着後100~300回)負荷10kg
7:30~16:30(登校支援中は必ず階段ダッシュ)
17:00~18:00(フィジカル・トレーニング)

・腹筋(出発前100~300回)負荷10kg
・ウエイト・トレ(GYM)月水金
・クロスフィット(道場)火木土
18:30~21:00(道場)指導及び追い込み
・道場から帰宅後(自主練)
・腹筋(入浴前100~300回)負荷10kg
22:00軽めの夕食(減量食)
・その後、就寝までメンタルトレーニング
23:00倒れ込むように就寝(そして毎晩痙攣祭り)

【道場での主な稽古内容】
・基本稽古(約30分)月水金は2クラス
・スパーリング(2分×10数セット)火木土
・階段ミット蹴り(2分×3セット)毎日
・高速ミット突き(2分×3セット)毎日
・ビッグミット(2分×3セット)毎日
・キックスクワット(2分×3セット)毎日
・シャドウ(2分×3セット)毎日

このメニューを休むことなく繰り返したお陰で、徐々に自信や体力も回復。

「これだけやって負けるはずがない」
「絶対に世界チャンピオンになれる」

と常日頃から口に出せるほど、すっかりポジティブ芸人の顔に戻っていた。

お世話になったシットアップベンチとプレート(5㎏×2枚)
友人に隠し撮りされた写真w(走り方ダッサw)

平日はこれを毎日のルーティンとし、土日はメニューを変え更にぶっ倒れるまで追い込んだ。

世界の頂点を獲れるなら、例え体がぶっ壊れようと構わない。

そんな精神状態で、1分1秒たりとも気を抜かず肉体を酷使し続けたフリムン。

お陰で真夜中に全身の筋肉が痙攣し、のたうち回る事も少なくなく、寝不足のまま朝を迎えるのが常であった。

余りにも痙攣が酷い時は一人では何もできず、カミさんの力を借り、ストレッチやミネラル補給をする事も。

ちなみにこれは、毎晩のように繰り広げられた夫婦のやり取り(ある意味ショートコント)である(笑)

「あーーー攣った攣った攣った(悲鳴)」
「大丈夫?(冷静)」
「ぜ、全然、だいじょばん(悶絶)」
「どこが攣ったの?(超冷静)」
「全部、全部、全部(号泣)」
「ここ?(メガ冷静)」
「違う違う違う、反対側っ(逆ギレ)」
「ここ押す?(ガン無視)」
「あーーーーストップストップ(悲鳴)」
「じゃ塩分チャージ取ってくるね(ギガ冷静)」
「た、た、頼む
「もう大丈夫でしょ?(テラ冷静)」
「う、うん、少し良くなった
「じゃ寝るね♡(歓喜)」

このように、世界大会が終わるまでは毎日のように、夫婦仲良く寝不足となった(笑)

更に朝目覚めると、ガムテでぐるぐる巻きにされたかのように全身が硬直。

気合で動かさなければビクともしない状態が続いた。

身体を起こす際もタンスやソファーを利用しなければならず、プレートの入っている右足は常に激痛。

足を引きずって歩くしかなく、トイレに行くにもかなりの時間を要した。

「何故そこまでするの?」
「もしかして自分の年齢忘れた?」

と色んな人に聞かれたが、それを続ける確固たる理由があった。

それは単に世界王者になりたいという事ではなく、死に物狂いで稽古に打ち込む姿を、道場生に見せる必要があったからだ。

言葉で伝えるよりも、背中を見せる方が何十倍もの効果がある。

長きに渡る指導者人生で、それを痛いほど痛感していたフリムン。

「百聞は一見に如かず」

という言葉の重みを、誰よりも知っていたからである。

しかし、その背中を見せられるのも残り僅か。引退試合となるこの世界大会が最後のチャンスであった。

ただ、世界大会が近付くにつれ、体の調子が見る見る向上。

イキって飛ばし過ぎたせいで、左脹脛を肉離れ。

元々悪い右足と合わせ、試合直前だというのに両足とも使えなくなってしまった(ア、アホやん…)

しかし、それでもフリムンは1mmたりとも諦めなかった。

脹脛に負担が掛からないよう椅子に腰掛けたり、膝を着いたままミットに突きを打ち込み、休むことなくヒットマッスルを刺激し続けた。

そして行きつけの「サンテ治療院」で針を打ちながら電流を流したり、酸素カプセルを利用したりと、やり残しの無いよう“あの手この手”を尽くし切った。

お陰で何の不安もなく“最後の追い込み”を終了。

世界大会の1週間前より完全休養に入り、疲れ切った体を「超回復」させる作業へと移った。

その間に肉離れの痛みも徐々に回復。

後は本番に向け、更に士気を高めるだけとなった。

針治療と完全休息により、脹脛の痛みも徐々に回復
直前に地元紙が特集記事を掲載してくれた

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この記事を書いた人

田福雄市(空手家)
1966年、石垣市平久保生まれ、平得育ち。
八重山高校卒業後、本格的に空手人生を歩みはじめる。
長年に渡り、空手関連の活動を中心に地域社会に貢献。
パワーリフティングの分野でも沖縄県優勝をはじめ、
競技者として多数の入賞経験を持つ。
青少年健全育成のボランティア活動等を通して石垣市、社会福祉協議会、警察署、薬物乱用防止協会などからの受賞歴多数。
八重山郡優秀指導者賞、極真会館沖縄県支部優秀選手賞も受賞。


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