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【編集後記】令和5年5月号:石垣島と海と人| 石垣島という島名の由来について



石垣島と海と人

先月の【月刊まーる】では「人と言葉」をテーマに設定し、ライターの皆様に記事を書いていただいた。ただし、本誌のテーマとはあくまでも、マガジンに統一感を出すために設けられたフレーバーのようなものであり、実際は無視しても構わない、と執筆をお願いする皆様にはお断りを入れてある。そのほうが書くほうも編集するほうも楽だし、皆が同じテーマに縛られると、フレーバーどころか胡散臭くなってしまうような気がするからだ。このことを、知っておいていただいた上で、今月のテーマは「石垣島と海と人」であった、ということをお伝えしたい。

とはいえ、今月号から新たに始まったRaGmyさんの音楽連載「今日もくらげ日和」を初め、渡辺直由さんの「八重山の海と海人」、慶田盛大輔さんの「旅立ち」、縁をつなぐエッセイの「私はなぜ島に帰ってきたのか」、などなど、ほぼほぼ石垣の島と海と人というテーマを感じさせる記事が集まっている。皆様に感謝したい。

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石垣島という島名の由来について

皆さんは「月刊 石垣」と言う雑誌があるのをご存じだろうか。1980年に創刊され、発行部数は45,000部。石垣島の人口とほぼ同じである。

ちなみに「月刊 やいま」は、前身となった「情報やいま」の創刊が1992年であり、名称が「月刊やいま」となってリニューアルされたのが2009年であるから、「月刊 石垣」の方が石垣市民にとっては馴染みがあるはずだだ、と考えても不自然ではない。

初めて「月刊石垣」を目にしたのは5年ほど前、私が海外の日本人商工会議所で仕事をさせていただいていた時だった。夕方オフィスに顔を出すとマガジンラックの前に月刊石垣のバックナンバーが積まれていた。事務員の話によると午前中オフィスに訪問された沖縄県のとある商工会理事の方々が置いていかれた、という。

私は「日本は石垣島のような離島でも、地域特化型の月刊誌があるのかぁ」といたく感心したのを覚えている。しかしながら、当時私はまさか自分が石垣島に移住しようなどとは露とも思っていなかったので、雑誌を開くこともなく、内容を知らぬまま時は流れた。

昨年、ちょっとした仕事の関係で、数年ぶりに私が所属していた商工会の理事面々と話す機会があった。今私が石垣島に住んでいることを理事の方に伝えると、機会があれば商工会議所との連携などでまた協力してくださいよ、などと、まあ凡そ期待していないであろう社交辞令的なことを言う。なので、私も何となく気の利いたことを言ってやろうと思って聞いてみた。

「そういえば昔、石垣島の方が商工会オフィスにこられて、月刊石垣を置いていきませんでしたっけ?その後提携は進んでいるんですか?何かあればこちらの商工会に顔を出してもいいですが・・・」

理事の方はきょとんとした顔で、「石垣島との提携話なんてありましたっけ?」と言う。どうやら、沖縄の方は来られたことがあったが、石垣島の商工会とは交流がないらしい。

私は、「いや、でも月刊石垣ってそこにバックナンバーが大量にありません?オフィス移転の時に廃棄しちゃいましたかね?」と尋ねてみた。すると理事の方々が突如、爆笑して呼吸困難に陥りながらも教えてくれた。

「いやいや、あれは違いますよ、あれはね、月刊石垣は石垣島とは全く関係のない日本商工会議所が発行している全国紙ですよ!」

ええええええ。

何のことはない、私が「沖縄から来られた商工会の理事」と「月刊石垣」を勝手に結びつけて、石垣島の雑誌である、と勘違いしていただけであった。

調べてみると確かに各号には、もうビジネス関連コンテンツバリバリの経営者向けコンテンツや経済関連の記事ばかりが並んでおり、石垣島とは全く関係がない。

「石垣」と言う言葉も、昭和55年当時の日本商工会議所元会頭・永野重雄氏が自身の「日本経済石垣論」にちなみ命名した、と書いてある。ちなみに以下が日本経済石垣論の由来である。

『東京丸の内の東京商工会議所二階の会頭室からは、皇居の濠の石垣が目の前に見える。永野はそれを眺めながら、「この石垣がつくられたのは徳川家康が征夷大将軍に任ぜられてまもなくというから、17世紀初頭と聞く。それから三百数十年も経た今でも、この石垣はびくともしない風情を見せている。日本商工会議所は、北は稚内から南は沖縄まで、全国各地の大・中・小の企業規模を越え、業種を越えた約百万の会員を擁している。それは大きい石、小さい石、形の変わったいろいろな石が、たくみに絡み合い組み合って隙間を埋め、堅固なものとなっている皇居の石垣のように、大小各種の企業が相互に補充し合い、日本産業の発展のために共同作業する組織体である」と考えた。日本商工会議所発行の情報誌『石垣』は、永野のこの考えにちなみ命名されている。』

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:25 UTC 版)

なお石垣島の「石垣」も、そもそも(石を組んで作られた塀のこと)を指すものではなかったようだ。古代史の『続日本紀』によると、714年(和銅7年)に「信覚・球美」などの人々が来朝したと記されており、信覚は(しがき)と読む。また「イシガキ」は方言では「イシャナギィ」となり、石が多いという意味となるという。

(了)

今月のふろく

①縁をつなぐレシピ | DRAPEAU 加藤沙弥香さん直伝!山城さん人参を使った思い出のカップケーキレシピ!
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編集後記執筆者

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三宅一道
(クロスボーダー✖️縁の石垣コミュニティマガジン:月刊まーる 編集長)

1977年生まれ。20代でミュージシャンとしての成功を目指すもバンド解散で挫折。日本の閉塞感に耐えきれず25歳でフィリピンへ移住。日本語教師として10年間現地の大学で教鞭を取る。2011年に日本語人材の学生達を組織して起業。漫画の翻訳を中心とした事業展開を行う。2020年に石垣に移住。
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