私のFIRE理論とFIREを目指さない生活
FIREと個人について
皆さんこんにちは、マルマルです。
今、この記事を書いているのは午前3時です。日中の立ちっぱなしのせいか足のだるさに寝ていられなく記事を書いています。毎日運動はしているんですが、年齢のせいでしょうか。
私がFIREを目指したのは2018年からになりますが、そこから様々なことに挑戦してきたつもりであります。
事業を興そうとしたこともあります、会社ホームページもHTML&CSS等を習得して作成したり、次にC#を使いスマホアプリを作ろうとり、その時々に様々なことをしてきました。
それらは、現状で何か大きな収入を得ているかといえば、そうではありません。
しかし、それらは全くの無意味であるかと言えば、それは大きく反論をさせて頂きたいです。
その経験は自分のバックボーンとなり、今の自分を支えると共に推し進めてくれる自分の一部になっているからです。
一時期はFIREということから遠ざかり、それを目指すことをせず生活をしてきました。
それは、どこか自分の中で「FIREの達成は自分には不可能」という自分の能力や生活環境に限界を感じていたからだと思います。
今の自分はFIREできるかどうかを問えば、それは確固とっした自信があります。
自分のスキル以外にも、幸運な巡り合わせもあります。
しかし、幸運な巡り合わせは一種の運の要素であり、各個人より違いますし、それを掴めるかは各個人に委ねられることです。
全ての人がFIREをできるかといえば、そうではないと思います。
ただ、FIREを目指す一人ひとりにその可能性はあると考えています。
簡易な表現では、早くFIREできるか遅くFIREになるかの違いではないかと考察しています。
FIRE理論とFIREを目指さない生活
私の両親は、FIREというものを全く目指してはいませんでした。
それは多くの方が、そうであるように「全ての人が本気ではFIREを目指しはしないと」思います。
私が、FIREすることの効果として最重要と考えるのは、
自分が何ができるか選択すること
人生を選択する自由な権利があること
にあります。
FIREをすることにより大きなメリットがありますが、
FIRE = 幸せとは必ずしもならない
と考えています。
それは、FIREを達成せずとも幸せな生活をしている人がいるからです。
私の場合、私の両親が一番身近な例になります。
FIREをしていないから幸せではないかどうか
と言えば、
FIREをしていなくても幸せに生活をしている
事実があります。
FIREは、幸せになるための手段にはなりえるものの、それ「自体が幸せと結論づけれるか」と言えば、そうではないと考えます。
今回は、ここまでの記事とさせて頂きます。
もし、少しでもよいと感じた部分があれば、応援とご支援を賜りたく思います。
こういった記事を書くこと自体に、まだとまどいも感じております。
皆様に少しでも良い影響を与えられることができれば、それが私も本望になります。
最後までお読み頂きまして、ありがとうございます。