Mozart Trip in 2024【後編】
ごあいさつ
こんにちは。
初めての人ははじめまして。
予想を外して長きに渡っているこのMozart旅行記(というよりMozart史)まとめもいよいよ最後の記事となりました。
まさか3部作になろうとは...
私自身も驚いてます。
3部作の前半戦と中半戦のグダグダした様子は下記からご覧になれます。↓↓
このオタク旅行を終えてから早くも1ヶ月以上が経過してしまいましたが、この記事を書いてる間はいつでもあの楽しい日々が思い出せて幸せです。
そんな記事もこれで最後かと思うと気合が入りますね...頑張ります!
それでは早速、最後のMozart旅行を辿っていきましょう!
10. オペラ作曲家としての活動
上の写真はトラムの駅から撮影した夜の国立歌劇場です。
夜は照明の光も相まって重厚感増し増しの写真になりました。
世界三大歌劇場の1つに数えられるこのウィーン国立劇場は、フランツ・ヨーゼフ1世による都市改造計画の元1863年に着工され、1869年に本記事の主役であるMozartの《ドン・ジョバンニ》の上演によってこけら落としされています。
さて、前記事の終わりでは主に室内楽におけるMozartの活躍を紹介しました。
前記事でも書きましたが、Mozartが音楽界に残した偉業は、多様なる音楽ジャンルに数多くの名曲を残したことです。
それは、ザルツブルク時代から培った「教会音楽」であり、ウィーン初期に一風を風靡した演奏活動のための「室内楽曲」「交響曲」であり、そして、これから紹介する「オペラ」でもあります。
Mozartがウィーンにおける「オペラ作曲家」として、今日でも愛される数多くの名作を生み出し始めたのは1786年、Mozartが30歳となった年でした。
この年最初のオペラ作曲依頼は、時の皇帝ヨーゼフ2世からもたらされます。
ヨーゼフ2世は、1782年に初演されたドイツ語オペラ《後宮からの誘拐》や、その後のウィーンにおける演奏活動での活躍などからMozartを優秀な音楽家として高く評価していました。
その為、オランダ総督アルバート公夫妻の歓迎行事として企画した大切なオペラ公演のための作曲をMozartへ依頼したということです。
但し、このオペラ公演での作曲依頼はMozartのみではありませんでした。
前記事でも紹介した宮廷作曲家Antonio Salieriにもオペラ作曲の依頼があったのです。
この時、Mozartに依頼されたのはドイツ語オペラ《劇場支配人》であり、一方Salieriに依頼されたのはイタリア語オペラ《はじめに音楽、次に言葉》でした。
つまり、この公演はドイツ語オペラvs.イタリア語オペラという趣向があったということです。
さすがは音楽好き皇帝。やることが違います。
ウィーンにおける才能ある若き2人によるこのオペラ対決は、1786年2月7日にシェーンブルン宮殿のオランジェリーで、作曲家本人達それぞれの指揮の元執り行われたました。
シェーンブルン宮殿の中でも最大の見所と言ってもいいオランジェリー(大温室)は、天井のフレスコ画とそこから下がる大きなシャンデリア、壁を飾る数々の装飾など優美で豪華な内装です。
現在、オランジェリー内には休憩用の椅子がいくつかあるので、付属のオーディオガイドを聴きつつ小休憩もできます。
目に焼き付けたつもりでしたがまた行きたくなってきました。
ヨーゼフ2世はこの豪華絢爛なオランジェリーで晩餐会や祝賀会を開催することを好んだようですが、現在でもこの場でMozartやJ.Straussのコンサートが開かれているようです。
次回はオペラ対決に思いを馳せながらこちらのコンサートにも参戦してみたいですね。
さて、このオランジェリーで開かれたドイツ語vs.イタリア語のオペラ競演ですが、金銭的な軍配はイタリア側、つまりSalieriに上がったようです。
というのも、台本の構成上、Mozartの作曲した曲数はSalieriの半分ほどだった上、台本自体の面白さも《はじめに音楽、次に言葉》の方が聴衆からのウケが良かったらしいのです。
ただでさえ敵視している相手に負けたとあって、Mozartのオペラ作曲に対する熱意は更に高まったことでしょう。
こうした時期を超えて、同年5月に初演された名作オペラが《フィガロの結婚》でした。
所謂「ダ・ポンテ3部作」の第1作に当たるオペラですね。
実のところ《フィガロ》は前年秋から作曲が始まっていました。
ですが、年末にかけて作曲ペースが落ち、その後オペラ対決を終えた翌月から再び集中的に作曲が行われて完成されたそうです。
何故一旦落ちた作曲ペースが、再び集中的に作曲されるようになったのかについては諸説色々あるようですが、個人的には少なからずオペラ対決の刺激があったのではと思っています。
だって《フィガロ》はイタリア語オペラなんですもん。楽しいね。(落ち着け)
さて、この《フィガロ》の初演に関してお話しする前に、1つ私の旅自慢をさせて下さい。
なんとウィーン国立歌劇場で観てきました...!!
やったーーーーー!!!!!(鎮まれ)
そもそも、オーストリアへ行こうと思い立った理由の一つが国立歌劇場での《フィガロ》上演でした。
但し人気のオペラとあって、思い立った時には時既に遅し。既に座席は完売していました。
というわけで、立ち見席を取るべく当日チケット3時間待ちに挑むことになったのですが、同じく1人観光客で立ち見席待ちをしていた人達とお喋りしていたので、割とストレス無く待つことができました。
優しい人達に巡り会えた幸せな旅でした。
立ち見席と聞いて気になるのは体力の部分だと思いますが、公演の約半分くらいに幕間で休憩が挟まるのでそこまで辛くなかったです。
馬蹄型をとっているこの劇場は、舞台やオケピから座席までの距離が近く、音がすぐそこで聴こえるような感じがしました。
有名な序曲を間近で耳にした瞬間、感無量でお恥ずかしながらそれだけで泣きそうになりました。
心の底から行って良かったと思います。
私が観た公演で特に劇場全体が盛り上がったのはケルビーノのアリア《恋とはどんなものかしら》だったと思います。
純粋で正直なキャラクターに与えるMozartの曲って本当にMozartって感じがしますよね。(何を言ってるんだ)
このように、私が観た2024年5月7日の公演は大盛況だったわけですが、218年前の1786年5月1日に行われた初演はどうだったのでしょうか?
実は、今日でこそMozartの代表作と言われるオペラ《フィガロの結婚》ですが、初演時の評判は賛否両論だったそうです。
当時の新聞はその様子を下記のように記しています。
元々、フランス人作家Beaumarchaisによる《フィガロ》の原作というのは、貴族封建社会への風刺戯曲となっていました。
その為、台本作者であるLorenzo Da Ponteはその毒を抜くように台本を作成し、ヨーゼフ2世から上演許可を得たということですが、貴族社会の色が残るウィーンで公演するというのはかなり際どい博打だったと思います。
加えて、Mozartによって与えられた曲は寧ろ風刺を呼び覚ますものだった為より悪いです。
このような時代背景が公演における向かい風となったのは勿論ですが、《フィガロ》上演にあたってウィーンオペラ界の何者かによる妨害工作も行われていたようです。
その容疑者として挙げられているのは、
劇場監督Orsini-Rosenberg伯爵、
Da Ponteのライバル台本作家であるCasti、
また、MozartのライバルであったSalieri
などですが、その真相は分かっていません。
曰く付きでウィーン公演を終えた《フィガロ》はその後、お隣のプラハでも初演が行われました。
そして、こちらでは打って変わって初演から大好評を博したのです。
その人気ぶりから、Mozartは同年の暮れにプラハから招待を受け、それに応じる形で年が明けた1787年1月にプラハへと訪れました。
そこで《フィガロ》人気を目の当たりにしたMozartは、その熱狂ぶりをウィーンに居る友人宛の手紙に次のように記しています。
プラハ滞在中、Mozartはプラハ国立劇場における《フィガロ》の公演に列席しただけでなく、22日公演では自ら指揮をとり、また、得意の劇場公開演奏会を開くなどして、約1ヶ月の短期間で1000フロリン(約30,000€)もの大金を稼いだそうです。
加えて、この時プラハから次シーズン用のオペラ作曲オファーも獲得しました。
こうした経緯で作曲されたオペラが、《ドン・ジョバンニ》となりますが、その作曲の様子や初演の様子などは次章でお話ししたいと思いまいます。
11. 父の死と《ドン・ジョバンニ》
何を今更、幼少期のヴァイオリンの写真などとお思いでしょう。
理由は簡単です。章題に合いそうな写真が無かったからです。(泣)
この写真は、全記事に渡ってお世話になっている、ザルツブルクの「モーツァルトの生家」で展示されていたオリジナル楽器になります。
写真では分かりづらいですが、子供用とあって、小さく可愛らしいヴァイオリンでした。
ヴァイオリンの名手であった父Leopoldから神童へ、この小さなヴァイオリンを通してその技法が伝えられたのかもしれません。
章題に良い感じに寄せたところで、プラハからウィーンへと戻ってきたMozartへとお話しを戻しましょう...
と、その前に、同年のウィーンにおける音楽史的なイベントも紹介します。
Mozartがウィーンへと戻った2ヶ月後である1787年の4月、後に古典派の集大成を成す楽聖Beethovenがウィーンを訪ねます。
但し、当時16歳のBeethovenが31歳となったMozartの元を訪ねたという正確な記録は残っていないようです。
とは言え、Beethovenなら、会いたいと思えば何が何でも会いに行ってそうな気がします。
不可能を可能にしていく人なのでね。
更に余談ですが、私が上の写真を撮影した日付は2024年5月7日、第九初演から丁度200年となる日でした。
その為、その日は公開されていた第九の自筆譜や、Gustav Klimtの“ベートーヴェンフリーズ”を見に行くなどのオタクムーブをかまして過ごしました。
最高のコンディションというやつを熟知してるのです。
改めて考えてみても我ながら天才の旅行でした。
お話しがBeethoven寄りとなってしまいましたので、Mozartへと戻します。
Beethovenがウィーンに滞在している中、Mozartの元に1通の不穏な知らせが届きます。
父Leopoldの体調が悪化していたのです。
前記事で書いたように、Mozartの結婚問題などを受け、父子間の関係はやや疎遠となっていました。
それは、1785年にLeopoldがウィーン訪問をした際にも改善されず、手紙のやり取りはあるもののぎこちない関係が続いていました。
そのようなことも相まって、父の体調不良に気づくのが遅れたMozartは、その突然の知らせに大きな衝撃を受けたことでしょう。
父の病状を知ったMozartは、4月4日付けで父宛に回復の祈りを込めた見舞いの手紙を送ります。
しかし、その願いは届かず、最愛の父Leopoldは翌月5月28日に姉Nannerlに見守られながら息を引き取りました。
父の訃報を知ったMozartが友人に宛てて書いた手紙にはその悲痛な胸の内が記されています。
辛く悲しい時期ではありますが、丁度この頃に2つの有名な作品が作曲されています。
1つは《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》
第1楽章は必ずどこかで耳にしたことがある曲ですよね。
元々5楽章からなる作品だったそうですが、その内の1つが失われてしまった為、現在は4楽章構成で捉えられています。
そして、2つ目の有名な作品が、『好色男が口説いた娘の父親から裁きを受けて地獄へ堕とされる』という内容の《ドン・ジョバンニ》です。
前章の通り、このオペラはプラハからの依頼によって産まれた作品で、こちらも《フィガロ》に引き続きDa Ponteによる台本となりました。
実際、Da Ponteから《ドン・ジョバンニ》の台本を渡されたのは3月だったので、父の死と台本の関連性は全く無いのですが、「女性問題」「父の死」「父からの裁き」というテーマを持つこのオペラが最愛の父が亡くなった時期に作曲されたことは不思議な運命のように思われます。
台本を受け取った春から作曲を開始し、その後も継続的に作曲を続けたMozartでしたが、10月14日の上演に向けてプラハを訪れた10月4日時点でも序曲を含んだ全体の3分の1ほどが全く手付かずの状態でした。
ところが、運良く上演を予定されていた祝典がキャンセルとなったことで初演は29日に延期されたのです。
それでも序曲だけは難航し、結局初演日2日前でも完成できず、妻Constanzeの介抱の元、半ば徹夜状態で初演に間に合わせたと言われています。
そんなお騒がせ序曲が下記になります。
ストーリー中の地獄堕ちにおける恐ろしい音で始まり、その後ニ短調の不穏なメロディが続いた後、軽快な曲調へと変化していきます。
正に主人公の"ドン・ジョバンニ"及び、ストーリーの"喜劇"と"悲劇"の二面性が鮮やかに描かれていますよね。
ほぼ一晩クオリティということが信じられません。
《フィガロ》に続いて、《ドン・ジョバン》も大成功を収めたMozartは翌月11月初旬にウィーンへと戻り、更にその翌月には7年越しの念願であった宮廷作曲家へと任命されます。
宮廷勤めは具体的に何処を指すのか分からなかったので、ハプスブルク家の住居であるホーフブルク宮殿でお茶を濁します。
ハプスブルク家の普段の生活はここで行われていたそうですが、斜めの画角でも収まらないこの建物で生活したら一生迷子になりそうです。
この宮廷作曲家へ任命は、11月15日に亡くなったオペラ界の巨匠であるGluckの後任とされており、ヨーゼフ2世がMozartに大きな期待を寄せていたことが伺えます。
因みに翌年1788年2月には、Mozartが敵意を抱いていたSalieriがBonnoの後任として、宮廷楽長へと任命されています。
丁度宮廷楽団の世代交代の時期でもあったことから、ヨーゼフ2世は、38歳となるSalieriと32歳のMozartという若い2人を主軸とした宮廷楽団の改革に着手したということです。
相変わらず、当時お互いがお互いをどう認識していたかという記録はありませんが、この辺りから交流の回数は増えたことと思います。
父の死という悲しみを乗り越え、音楽活動は至って順風満帆そうに見えるMozartですが、この頃から暗雲の兆しが見え始めます。
Mozartに迫っていた「危機」とは一体何だったのでしょうか?
次章へ続きます。
12. 危機の時
文字通り暗雲立ち込めたウィーンの写真です。
こちらはカールス教会の展望箇所から撮影しました。
右端に見えるオレンジ色の建物がウィーン楽友協会というコンサートホールです。
ウィーン楽友協会は1812年に設立されたクラシック音楽関係者の団体であり、こちらの建物は1870年に建てられその本部となります。
こちらでも頻繁にMozartの曲が演奏されているのでいつか行ってみたいですね。
さて、前章でようやく宮廷作曲家へと任命され、安定した収入を得ることが出来るようになったMozartですが、1888年の初頭より織物商であったPuchbergへ借金依頼の手紙を送り始めます。
Mozartの収入は一般的に見ても高額所得者の水準にあったのにも関わらず、この金銭的困難は晩年まで続きました。
こちらの説も色々あるのですが、時代背景の面で言えば、オーストリアが対トルコ戦争に参戦したことで、物価が高騰し、市民の生活を逼迫させたことが起因してると言われています。
こうした金銭的困難に直面する中で、5月7日、《ドン・ジョバンニ》がウィーンでの初演を迎えました。
プラハでの大成功を受けて、Mozartは期待を込めて、新たな2曲のアリアと1曲の二重唱を作曲して挑みましたが、ウィーンでの評判はそこまで高くなく、寧ろ否定的な意見の方が多かったそうです。
実のところ、1786-7年頃からMozartの音楽の難解さが指摘され始めていました。
18世紀の音楽的な流行りは"ギャラント様式"と呼ばれる優美で軽やかなものであったのに対して、後期のMozartの曲はバロック時代の対位法(複数の旋律を持つ音楽)を駆使したものが増え、やや時代と逆行していた(寧ろ新過ぎた?)のかもしれません。
このような向かい風もあって、この頃のMozartの演奏会への出演頻度はガクリと落ちてしまいます。
その証拠に、かつては1年に6曲も書かれていたクラヴィーア協奏曲がこの年は《クラヴィーア協奏曲 26番 ニ長調》(K.537)のみとなった上に、完成当時ウィーンでは演奏されず、初演は1789年にベルリンへ向かう途中のドレスデンとなったようです。
この曲は「戴冠式」という愛称で知られていますが、その由来についてはまた後ほどお話しします。
このようにウィーン市民に向けた演奏会の機会は少なくなっていたようですが、代わり、前記事で紹介した古楽マニアのSwieten男爵が設立した「同好騎士協会」の編曲者を引き受けていました。
この「同好騎士協会」は、古い声楽曲をウィーンで上演することを目的としており、Mozartはこの協会の為にHandelのいくつかの歌劇を編曲しています。
また、この時期に生まれた重要な作品は下記に挙げる後期三大交響曲かと思います。
この3曲は全て有名ですが、40番の第1楽章は特に聴き馴染みがあると思います。
ただし、私が布教したいのは、Mozart最期の交響曲である41番第4楽章なので下記にはそちらを紹介しますね。(傲慢)
先に書いたSwieten男爵(中編参照)によってもたらされた古楽的な対位法の集大成ここにありって感じです。
しばしば「天国的」と表現されるこの楽章は、正にフィナーレを飾るに相応しい高揚感あふれる作品となっています。
是非聴いてね。
この3つの交響曲は1788年の6月から8月にかけての短期間で作曲されており、Mozartがウィーンに移住してからこれほど立て続けに3交響曲を作曲したのはこれが最初で最後でした。
一気に3曲も書かれた最も有力な説は、『3曲をセットとして出版しようとした』というものですが、当時3曲のみでの出版はされておらず、その真意は定かではありません。
但し、金銭的に逼迫していた時期なので出版による収入を狙った可能性は大いに考えられると思います。
さて、安定した収入を抱えながらも更なる収入が必要であったMozartですが、翌年の1789年4月に北ドイツへと音楽旅行に繰り出します。
金銭的余裕は無いのにも関わらずこの旅行を決行した目的は、音楽愛好家として知られるプロイセン王Friedrich Wilhelm IIとの会見でした。
因みに、先代の"フリードリヒ大王"はFriedrich Wilhelm IIの叔父に当たり、こちらも音楽愛好家として知られています。
私の推しその1なので、遠くない未来に彼を巡る旅をすると思います。
無事、目的の通りプロイセン王への謁見が叶ったMozartでしたが、この北ドイツ旅行でも際立った収入にはありつけず、寧ろ新たな借金を作りながら6月4日にウィーンへと戻りました。
加えて、8月には妻Constanze が病気を患ってしまい、彼女の治療費のための莫大な費用が必要となってしまいます。
かなり絶望的な状況ですが、同月には良いこともありました。
ブルク劇場にて2年ぶりに再演された《フィガロ》が大成功を収めたのです。
初演当時は物議を醸しただけあって、このことはMozartを喜ばせたことと想像します。
そして、この《フィガロ》からタッグを組んでいたDa Ponteとの最後のオペラ作品が翌月の9月から着手されました。
"ダ・ポンテ3部作"の第3作に当たるオペラ、《コジ・ファン・トゥッテ》です。
実はつい最近、日本の新国立劇場で上演していたので観てきました。
《コジ》を観るのは2回目だったのですが、現代風に上手くアレンジされていた新国コジは新鮮で楽しかったです。
こちらの作品の副題は「恋人達の学校」と言い、これはSalieriが1778年にヴェネチアで初演した歌劇《やきもち焼きの学校》にちなんでつけられています。
というのも、《コジ》は当初Salieriのために書き下ろされた台本でしたが、彼が最初の数曲のみを書いたのち断念してしまったことで、Mozartへと回された経緯を持っている為です。
《コジ》の初演は翌年1790年、Mozartが34歳となる前日である1月26日にブルク劇場で行われ、無事大成功を収めました。
しかし、喜ぶのも束の間、この公演は僅か5回で突如打ち切られることとなったのです。
それは誰かの妨害工作や陰謀などでは無く、皇帝ヨーゼフ2世が逝去によるものでした。
皇帝の逝去に伴い国全体は喪に服し、《コジ》が上演中であったブルク劇場を始めとした劇場が一旦閉鎖となったということです。
また、ヨーゼフ2世の逝去により、トスカーナ大公であった弟のレオポルト2世が次期皇帝として帝位を継承します。
ヨーゼフ2世は啓蒙主義思想の元、数多くの改革に着手したものの、そのやり方が急であったことから、反発も多くあったようです。
その為、弟のレオポルト2世は兄が残した負の遺産の清算をするべく、先代の関係者を次々と排除していく人事刷新に取り掛かかっていました。
そのような状況を露も知らないMozartは、次期皇帝に自分を次席宮廷楽長へ昇進させるよう嘆願書を提出しましたが、勿論却下されます。
それでも尚、アピールを諦めないMozartは、同年10月にフランクフルトで行われるレオポルト2世の戴冠式に合わせてフランクフルトへと発ちます。
ここでの旅費は銀器を質に入れて工面していたようで、なんだか涙が出てきちゃいますよね。
9日にフランクフルト大聖堂で行われた戴冠式では、Salieriを含むウィーン宮廷楽団の選抜メンバー及びマインツ選帝侯宮廷楽団による演奏が執り行われました。
一方で、選抜されなかったMozartは同月15日、先に紹介したクラヴィーア協奏曲「戴冠式」を含む複数曲を持って、大劇場での公開演奏会を開きました。
しかしながら、演奏会での集客は芳しくなく、こちらでも成果の上がらないまま翌月ウィーンへと戻りました。
このように、何もかもが上手くいかないMozartに追い打ちをかけるかの如く、翌月12月には、尊敬する大切な友人であるJ.Haydnがイギリスからの招待を受けてロンドンへと発ってしまいます。
J.Haydnがロンドンへ向かう前日14日には別れの夕食を共にし、そこでMozartは、英語の話せないHaydnを心配し、2人とも涙ながらに別れたという逸話が残されています。
加えて、MozartはHaydnに「もう会えないような気がする」とも言ったと言われていますが、悲しいことにこれは現実のものとなってしまうのです。
長きに渡ったMozartの人生旅行も残すところあと1年となりました。
この1年については最後の章でお話ししたいと思います。
13. 1791年
本記事のサムネにもしたこの写真は、ウィーン中央墓地で撮影したモーツァルト"記念碑"です。
何故墓地に"記念碑"なのかというと、Mozartが埋葬された場所はこの中央墓地ではなく、聖マルクス墓地であり、この場所には眠っていない為です。
ただし、聖マルクス墓地においても、後に説明する理由からから、Mozartの遺骨の正確な場所は分かっていません。
そこで、この音楽界の神才を弔うべく1859年にウィーン市によって聖マルクス墓地に建てられたのがこの記念碑になります。
その後、Mozart没後100年のタイミングでこちらの中央墓地へと移動され、現在はウィーンで活躍した数多くの著名な音楽家に囲まれながら墓参者を迎えています。
少々お話しが早急でした。
それでは改めて、順を追ってMozart最期の年を追ってみましょう。
さて、前章までの記述で薄々お気づきかもしれませんが、金銭的な困難を抱え始めた1788年以降のMozartは、演奏活動の縮小と共に作曲活動も低迷していました。
演奏活動の場が思うように得られず、大衆人気が離れていく中、謂わばスランプ状態のMozartでしたが、奇しくも最期の年となった1791年はその作曲意欲が復活を見せます。
年が明けて最初に完成した曲《クラヴィーア協奏曲 変ロ長調》(K.595)を皮切りに、Mozartはその年、声楽曲/器楽曲/宗教曲/舞曲/オペラの多岐に渡るジャンルで新作を残しました。
具体的な内容をかいつまんで見ていきましょう。
この年の初旬、前年から作曲協力していたEmanuel Schikanederが率いる一座から新作オペラ《魔笛》の作曲依頼を受けたMozartは、春から夏にかけて集中的にこの作品の作曲を行なっていたようです。
また、5月には市当局への申請が通り、聖シュテファン大聖堂の副楽長へと任命されます。
ザルツブルク時代から教会音楽を作曲していたMozartは教会音楽にも自信を持っていたようですが、この年はよりこのジャンルへの関心が深まっていたらしく、6月には妻の療養するバーデンで《アヴェ・ヴェルルム・コルプス》を作曲しています。
その後、ウィーンで《魔笛》の作曲を続けていたMozartの元に2つの大仕事が舞い込んできます。
1つは遺作となる《レクイエム ニ短調》、もう1つはオペラ・セリア《皇帝ティートの慈悲》です。
上の写真は今年のザルツブルクフェスティバルで上演だった《皇帝ティートの慈悲》のチラシです。
後ろで転がってるモーツァルトクーゲルはなんなんだ一体...
チラシは大いにふざけていますが、こちらのオペラはオペラ・セリア(正歌劇)という荘厳なジャンルに属し、プラハで行われるレオポルト2世のボヘミア王戴冠式の祝典オペラとして依頼されました。
実は、こちらのオペラも《コジ》の時と同様、最初は宮廷楽長であるSalieriに依頼されていたようです。
しかしながら、新皇帝とあまり上手くいっていなかったSalieriが宮廷劇場の仕事を理由にこれを断った為、今回もその依頼がMozartへと回ってきたというわけです。
そのような背景もあり、Mozartに依頼が回ってきた頃には、公演までの日数は1ヶ月ほどしかなく、7月末から8月末にかけては専らこちらの作曲に費やすこととなりました。
それでも早筆のMozartとあって、弾丸で書き上げたこちらのオペラは9月6日に無事祝典での初演を迎えることができたのですが、残念なことに、その評価はあまり良いものでは無かったようです。
祝賀行事とあまり相性の良くないMozartですが、今回の祝賀行事では、Mozartが過去に作曲した教会音楽のいくつかが宮廷楽団によって演奏されていたそうです。
一方で、この宮廷楽団を率いた宮廷楽長Salieriの曲はというと、この祝典行事の中では一切演奏されなかったのです。
このことはフランクフルトでの戴冠式とは対照を成す事実かと思います。
そもそも、戴冠式の選曲は宮廷楽長が行うことなので、Salieriは自ら進んで自作曲の代わりにMozartの曲を採用したのですが、その真意は定かではありません。
ですが、以前よりSalieriが取りまとめを行っていた音楽家協会の慈善演奏会でもMozartの作品をいくつも取り上げていた事実を踏まえると、少なくともSalieriはMozartの音楽を評価していたということでしょう。
つまり何が言いたいかと言うと、最早SalieriはMozartの敵などではなく、音楽的側面での一理解者であったと言うことです。
この事は、次に書くオペラ《魔笛》の公演に関するMozartの手紙からも読み取れます。
9月半ば、ウィーンへと戻って来たMozartは、《魔笛》の仕上げに取り掛かり、自作目録の日付によれば、同月28日に完成させています。
こうして30日、ウィーン郊外にあるヴィーデン劇場にて初演を迎えたMozart最期のオペラ《魔笛》ですが、こちらは初演から大成功を収めました。
《魔笛》における特に有名な曲は、
パパゲーノのアリア「私は鳥刺し」
夜の女王のアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」
の2曲かと思いますが、初演では、パパゲーノ役を座長兼台本作家であるSchikanederが勤め、夜の女王はMozartの義姉Josepha Hoferが勤めています。
パパゲーノに与えられた曲は戯けた可愛らしい曲が多く、音楽的にもキャラクター的にもMozartらしさが伺えて大好きです。
一方夜の女王のアリアでは、女性らしい美しさと力強さ、そこから生じる狂気を見事に高音のコロラトゥーラで表現してくるので完全に引き込まれます。
また、本作はMozartが1784年(28歳)から参加していたフリーメイソンのモチーフが凡ゆる所に散りばめられた作品にもなっているので、鑑賞する際はそちらも探してみると面白いです。
さて、この講演中には、Mozartからバーデンに居る妻へと2通の手紙が書かれています。
どちらも大盛況となっている《魔笛》の公演の様子を嬉々として報告するところから始まるのですが、現存する最期の手紙となった10月14日付けの手紙にはかつて敵意を抱いていたSalieriとのエピソードが下記のように残されています。
かつて、ライバル若しくは虚構の妨害者としてSalieriに敵意を向けていたMozartでしたが、この最後の手紙からはそのようなものは感じられません。
寧ろ、先輩音楽家からの素直な賛辞を誇らしげに妻に語っているようです。
お気づきかと思いますが、この記事では、Mozart史から見たAntonio Salieriという存在についても折に触れて紹介していきました。
というのも、このAntonio Salieriという人物は、Mozartの輝かしい偉業から生じた影に晩年苦しめられた、謂わばMozart史の被害者だったためです。
Mozartの没後、36年の人生を歩んだSalieriは、その晩年、夭逝した同世代の天才音楽家Mozartを毒殺したとする虚偽の罪を噂されます。
これは丁度、ウィーンでドイツとイタリアの音楽覇権争いが本格化した時期に生じたもので、MozartとSalieriはその対立のシンボルとして祭り上げられたのです。
このスキャンダラスな風説は創作物として現代にも残されており、アカデミー賞受賞映画「アマデウス」は特に有名かと思います。
私もあの映画は"フィクション"映画としてかなり好きです。寧ろ大好きです。
ですが、同時にMozart史を追う者としては、その関係を含めた正しい事実を共有したいと思ったので、本記事ではSalieriについてもやや丁寧に紹介していました。
Mozart最期の大仕事とその終わりへと進む前に、Salieriが教えたMozartの息子の為に書いた推薦状を一部抜粋し手書きで紹介したいと思います。
《魔笛》の初演が終わった頃、Mozartはようやく夏から依頼されていた《レクイエム》の作曲を本格化させます。
未完の遺作となったこの大仕事は、フランツ・フォン・ヴァルゼック・シュトゥパハ伯爵が人を介して匿名で依頼したものでした。
順調に《レクイエム》の作曲を続けていたMozartでしたが、11月17日のフリーメイソンの式典での新作小カンタータ《我らが喜びを高らかに告げよ》(K.623)の指揮をとった後、体調を崩し20日から病床に臥してしまいます。
その際、看病にあたっていた妻Constanzeの妹ゾフィーの証言によると、病床に臥してもなお《レクイエム》の作曲を続け、弟子のFranz Xaver Süßmayrにその方針を伝えていたとされています。
実際、《レクイエム》のうち、Mozartの手によって完成されたのは、イントロイトゥスのみで、キリエ/セクエンツィア/オッフェルトリウムに関しては、歌唱声部とバス及び器楽声部の主要音型のみが書かれていました。
その後、Süßmayrの尽力によって完成されたこの大作は三大レクイエムの1つとして現代でも取り上げられる重要な作品となったのです。
そして遂に最期の時がやってきます。
12月3日の晩から容態が悪化したMozartは回復しないまま、翌々日12月5日午前0時55分に35年11ヶ月の生涯を終えたのでした。
当時の検死結果に記された死因は急性粟粒疹熱でしたが、これは正確な病名ではなかった為、今日でもその死因は定かとなっていません。
翌日6日に聖シュテファン大聖堂で行われた葬儀には、親族の他、Swieten男爵、Salieri、弟子のSüßmayrとFreistadtler、Freistadtler一座のメンバーなどが参列しました。
同月10日にも、聖ミヒャエル協会にてMozart追悼のためのミサが執り行われており、そこでは彼の書いた《レクイエム》のうちイントロイトゥスとキリエが演奏されたそうです。
6日の大聖堂での葬儀後、Mozartの亡骸が納められた棺は聖マルクス墓地へと運ばれ、当時の慣例に従って共同墓地へと埋葬されました。
聖マルクス墓地は、現在墓地としては閉鎖されており公園として開放されています。
章の初めにも記したように、Mozartの亡骸は発見されておらず、上の写真のお墓のみが作られている状態です。
このお墓は章題の写真で使用した記念碑が中央墓地に移動された後に建てられたもので、天才音楽家の早すぎる死を嘆いた天使が据えられています。
私がここを訪れたのはウィーンに移動した初日の夕方でした。
音に溢れた人生を送ったMozartが永遠に眠るこの場所は、鳥の囀りが聞こえる静かな場所でした。
Mozartは生前ムクドリを飼っており、その鳥の囀りのような曲を作曲したとも言われていますが、もしかしたらまだここで作り続けていて、それを鳥達がアリアのように歌っているのかもしれませんね。
最後に、Mozartが《後宮からの誘拐》を作曲している際に父に宛てた手紙から読み取れるMozartの音楽観を紹介してこの旅を終わりたいと思います。
あとがき
読んで頂い皆さんお疲れ様でした!
本当にお疲れ様でした!!!
現在文字数が1万5千字を超えております...
書き過ぎました...
今回改めてMozartの歴史とその人となりを追えたことで、前よりもっとMozartの「良さ」を知ることができました。凄く嬉しいです。
本文ではあまり触れませんでしたが、Mozartの魅力は、その素直さにあると思います。
それは、ポジティブなものでもネガティブなものでもあるのですが、そこから生まれる音楽は常に「美しい」のです。
もし、この記事で少しでもMozartに興味を持って頂ける人が増えたらとても嬉しいた思います。
なので、記事の感想だけでなくMozartの作品への感想やお勧めがあれば是非是非コメントで教えて頂ければと思います!
大変長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。
また別の記事でお会いできたら嬉しいです。
それでは!
参考資料
西川尚生(2005), 『作曲家◎人と作品 モーツァルト』, 音楽之友社
柴田治三郎(1980), 『モーツァルトの手紙 (下) ー その生涯のロマン』, 岩波書店
水谷彰良(2019),『サリエーリ 生涯と作品
モーツァルトに消された宮廷楽長』, 復刊ドットコム