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Mozart Trip in 2024 【中編】

ごあいさつ

こんにちは。
前編以来ですね。

前編って何?と思われた方は下記がその前編になります↓

前編を描き始めたのは旅行から1週間後くらいだったのですが、気づけば早くも1ヶ月近くが経とうとしています。あっという間だ...

それでも未だに旅行のフワフワ感は抜けていません。
もしかしたら、noteを書いているせいで旅行を思い出す頻度が高くなっているからかもしれませんね。楽しいです。

前編でも充分グダグダだったと思いますが、中編も負けず劣らずのグダグダが予想されます。
加えて、内に棲むオタクが前編より更に前に出てくることも予想されますので、苦手な方はお気を付け下さい。

それでは張り切って中編に入りたいと思います!

6. 大司教との決裂

ホーフブルク宮殿

さて、いよいよウィーンに入りました。
長い道のりでしたね。

上の写真はハプスブルク皇帝達のお家、ホーフブルク宮殿です。画角に収まらないほどデカいです。
現在では、宮殿の内部が見学できるようになっていますが、旅程の都合上、中へ入る事は断念しました。
次回の楽しみが増えたなぁ(涙)

因みに、私が訪れた際は野外ライブの準備で白いテントがたくさん張られていました。
歴史的建造物の前でライブって何事なのよって感じです。

ようやく私の旅の話もできるようになってきたところで、話を1781年に戻しましょう。

前記事の通り、ウィーンに滞在していたColloredo大司教はウィーン貴族達に自分有する宮廷を誇示することを画策します。
そうして呼ばれたのが、宮廷楽師長であったBrunetti、カストラート歌手Ceccarelli、そして宮廷オルガン奏者のMozartでした。

1781年3月、ウィーンに到着したMozartは、到着した晩からシュテファン大聖堂近くにあったColloredoの叔父の邸宅(ドイツ騎士団の館)にてウィーン貴族達の前で演奏を披露します。

その後も、Colloredo大司教からの命令によって、演奏会の為にいくつかの作曲と演奏を披露していくのですが、この職務で忙しい時期に生まれたMozartらしいエピソードを1つ紹介します。

今日、僕たちは発表会を催しました。
そこで僕の曲が3曲演奏されました。もちろん新作です。
Brunettiのための (中略) [僕がピアノを弾く]ヴァイオリン伴奏付きのソナターーーこれは昨夜11時から12時までに作曲したのですが、一応仕上げてしまうために、Brunettiのための伴奏部分だけ書いて、自分のパートは頭の中に入れておきました。

1781年4月8日 ウィーンから父へ

お分かり頂けたでしょうか?
つまり、Brunettiのヴァイオリン伴奏は完成させて、本番当日に自分のピアノパートは即興演奏でやってのけちゃったという話です。
これこそAmadeus(神に愛された子)の成し得る技というやつです。

因みにその時の曲は《ヴァイオリンソナタ ト長調》(K.379)とされています。

このように、大司教命令のもと作曲と演奏で大忙しのMozartでしたが、その演奏会による大司教からの報酬はとても低かったようです。

そればかりか、大司教はMozartの個人的なウィーンでの演奏活動を制限しており、ウィーンでの就職活動も念頭に置いていたMozartにとって、Colloredo大司教は完全に邪魔者でした。

そしていよいよ大司教からザルツブルクへの帰郷命令が下されます。

勿論、Mozartには帰る気などさらさらなく、加えて、積もり積もった大司教への敵意からなんとこの命令を無視するのです。

これには流石のColloredo大司教も腹を立て、ついに2人は大衝突します。

「ところで若僧、いつ発つのか?」
「今夜発つことにしていましたが、座席がもう満席ですので」
(中略)
「では、猊下は私がお気に召さないのでしょうか?」
「なんだと、貴様はわしを脅す気か?馬鹿め、馬鹿め!出て行け!よいか、貴様のような見下げはてた小僧には、もう用はないぞ」
「こちらも貴方には、もう用はありません」

1781年5月9日 ウィーンから父へ

結構白熱したバトルが繰り広げられていたようですが、大司教としても、既にミュンヘンで無断に休暇を延ばしていたMozartの反抗的な態度には苛立ちはあったことと思います。

ザルツブルクに居る父からは考え直すよう手紙が送られていましたが、今回ばかりは父の言うことにも耳を貸さず、それどころか自分を支持してくれない父を非難する手紙を送りつけるほどでした。

こうしてMozartはザルツブルクに戻らぬまま、ウィーンでの定住を決意したのです。

7. ウィーン生活の幕開け

マリアテレジア像 @Maria-Theresien-Platz

上には、ウィーンで撮影したオーストリア女帝マリアテレジアの像を載せましたが、マリアテレジアは丁度Mozartがミュンヘンでオペラを書いていた1780年11月に亡くなっています。

そして、Mozartがウィーン定住を決めた1781年には既に、マリアテレジアの息子ヨーゼフ2世が皇帝として即位及び統治していました。

ヨーゼフ2世 @Mozarts Geburtshaus

ヨーゼフ2世は、母マリアテレジアの宿敵であったプロイセン王フリードリヒ大王と並ぶ啓蒙専制君主として有名です。
寧ろ、母の宿敵を尊敬していた程の人物です。
不敬だと重々承知の上で、ヨーゼフ2世とは話が合うだろうと勝手に思っています。

そんな啓蒙思想の元、ヨーゼフ2世はオーストリアの近代化を目指した改革を推し進め、オーストリアを自由で開かれた芸術の都としていったのでした。

つまり、Mozartにとってこの時期の定住はかなりベストタイミングだった訳です。

とは言え、当時のウィーンは、安定した収入のないフリーランスの音楽家としてやっていけるほどの環境は整っていません。

その為、Mozartとしては、いち早く皇帝に認められ、ウィーン宮廷のしかるべきポストに就職するというのが重要課題となりました。

では、当面の間のMozartの収入源は何だったかと言うと、演奏会への出演料とクラヴィーア教師としての授業料でした。

演奏会での猛活躍については、また後で触れるとして、ここではクラヴィーア教師としての活動について少し紹介します。

マンハイムやパリで就職活動をしていた時期は「相応しくない」と忌諱していたクラヴィーア教師の仕事でしたが、ウィーン時代においては常に数人の弟子を抱えていました。

Mozartが抱えていた弟子の中でも、特に高く才能を評価していたのがJosepha Barbara Auernhammerという女性でした。

実はこのJosepha Barbara、先生であるMozartに好意を抱いており、かなり積極的なアピールをしていたようですが、当のMozartは寧ろ、その厚かましい言動に閉口していたようです。

実際、この頃書かれたMozartからザルツブルクの父に宛てた手紙には彼女の容姿に対する悪口のオンパレードです。
一女性としてはかなり許せん内容です。

しかしながら、男女としては合わずとも、クラヴィーア師弟としては上手くやっていたようで、Mozartから彼女へいくつかの曲が献呈されています。

中でも、彼女の邸宅で開かれた私的音楽会(1781年11月)で彼女と連弾するために作曲された曲《二代のクラヴィーアのためのソナタ》(K.448)は有名かと思います。

個人的にはのだめカンタービレを読み返したくなる曲ですね。

その他同時期における教師活動のトピックを挙げるとするならば、ヴュルテンベルク公女のクラヴィーア教師候補に選ばれたことでしょうが、残念ながらこちらは実現しませんでした。

噂によると、ヨーゼフ2世が懇意にしていた宮廷作曲家Antonio Salieriに話が回ったとされており、Mozartから父へ宛てた手紙にもその憤りが記されています。

皇帝は僕の面目をまる潰しにしました。(彼は)サリエリにしか関心がないのです。

1781年12月15日 ウィーンから父へ

サリエリには、とても公女にピアノを教える力がありません!
あの人はせいぜい骨折って、他の人と一緒に、この事で私の邪魔をするだけです。

1782年8月31日 ウィーンから父へ

実際、この時任命されたのはSalieriではなく、第二宮廷オルガン奏者を勤めていた者だったようですが、この頃から、Mozartは何かにつけてSalieriをライバル視するようになります。

アントニオ・サリエリの肖像 @Mozarts Geburtshaus

ザルツブルクにおいて、大司教のイタリア人贔屓に辟易していたMozartにとって、自分の望む宮廷勤めをする同世代のイタリア人作曲家であったSalieriは面白くない存在だったのでしょう。

この2人のすれ違った関係については、また別の機会にお話しできたら嬉しいです。
ここで書けば間違いなくサグラダファミリア待ったなしなので。(真顔)

とは言え、折角2人の名前が挙がったので、2人が常連だったとされるGottfried van Swieten男爵の音楽サークルについても紹介したいと思います。

元外交官であったSwieten男爵は、外交官時代、バロック時代の楽譜収集に熱中しており、
外交官を辞した後は、収集した楽譜を用いて毎週日曜午後に自宅で私的演奏会を開いていたのでした。

当時宮廷図書館の館長であったSwieten男爵の邸宅はその図書館内にあったようです。

国立図書館

現在、宮廷図書館は国立図書館と名前を変え、「世界一美しい図書館」として人気の観光地となっています。
一眼レフのような本格的なカメラを持った観光客が沢山いたので、映えスポットなのかもしれません。

また、私が訪れた際はブルックナー生誕200周年ということで、ブルックナーの自筆譜や展示でいっぱいでした。

国立図書館 入り口正面から撮影

中央奥に佇むブルックナーの存在感よ。

このような有名作曲家の自筆譜などを含めた約1100万点ものコレクションがこの図書館に所蔵されています。
同じ空気を吸えて満足しました。

流石にこの美しい部屋の中ではなかったでしょうが、同じ建物の中で行われたSwieten男爵主催のバロック演奏サークルに、Mozartは1782年の春頃から頻繁に出入りするようになります。

このMozartとバロック音楽(対位法)との出会いは一般に「バッハ・ヘンデル体験」と呼ばれ、Mozartの音楽の変化点として捉えられています。
故に、Mozartの音楽は「ウィーン以前/以降」と分けられて表現されることが多いです。

皆さんはどちらが好きでしょうか?

Mozartの音楽に変化が生じ始めている丁度この頃、Mozartは私生活にも変化が生じていました。

実はMozart、1781年の冬頃から婚約をしていたのです。

お相手は5歳年下のConstanze Weber。
勘のいい人は"Weber"と聞いて何か思い出す人もいるかもしれません。

コンスタンツェの肖像
@Mozarts Geburtshaus

そう、彼女はMozartが就職活動の終わりに失恋した相手Aloysiaの妹なのです。

実は、Weber家もウィーンに移住をしており、Mozartはウィーンにて大司教と大喧嘩する直前にWeber家のアパートに寄宿していました。

そこで今度は、Constanzeと親密になっていったということでしょう。

一方で、就活中のマンハイムの一件から、父LeopoldはWeber家をよく思ってはいませんでした。
Weber家を遠ざけるべく、息子に引っ越しまでさせましたが、その甲斐虚しく、1781年12月には息子から結婚の決意表明を貰ってしまいます。

それでもなお反対し続けた父を無視して、翌年1782年8月4日(26歳)、シュテファン大聖堂にて結婚式を挙げるのでした。

シュテファン大聖堂

ウィーン大司教区の司教座聖堂であるシュテファン大聖堂は、現在もウィーンの観光の中心となっています。
屋根のタイルで描かれた双頭の鷲が最高です。

私が訪れた際は修復工事(?)をしていて、教会内に結構な爆音が鳴り響いていました。
教会内の写真はまた後ほど!

お話をMozartに戻します。

この結婚騒動で頭を悩ませている最中、Mozartには1つ大きな仕事が舞い込んできました。
オペラ《後宮からの誘拐》の作曲依頼です。

先述の通り、ドイツ文化振興を進めていたヨーゼフ2世の改革の一つとして、劇場改革というものがありました。

それは当時ウィーンにあった宮廷劇場の1つであるブルク劇場を宮廷が直接管理する"ドイツ国民劇場"とし、演目をドイツ語に限定するというものでした。

ブルク劇場

正面じゃないのかよって感じですが、一応写真撮っていました(大汗)

因みにこのブルク劇場、18世紀当時は違う場所にあったようですが、19世紀に現在と同じ場所に建て直され、大戦中の焼失から20世紀に再建されたものが現存しているといった割と壮絶な歴史を辿っています。

このブルク劇場での上演を狙って依頼されたドイツ語オペラこそが《後宮からの誘拐》だったのです。

ザルツブルクで燻っていた時期から切望していたドイツ語オペラ、しかも皇帝に認めてもらう絶好のチャンスとあって、Mozartはこの上なく意気込んで作曲に着手しました。

1782年7月29日、ブルク劇場にて行われた初演は無事大成功を収め、加えて、シーズン内(82/83)における上演回数は計15回となるヒット作となりました。

更に、このオペラは直ちに国外や諸地域へと広まり、1784年にはザルツブルクでも初演が執り行われたました。
この時、イタリア贔屓であった宿敵Colloredo大司教ですら「これは実際悪くない」と溢したと父Leopoldは語っています。

このようにMozartのウィーン生活は、愛する人との結婚とオペラの大成功という、この上なく幸せな幕開けとなったのでした。

8. 故郷への訪問と別れ

モーツァルト記念碑 @モーツァルト広場

上の写真はザルツブルクのモーツァルト広場にあるMozartの記念碑です。
私がザルツブルクに到着して初めに向かった場所ですね。前記事のサムネに使っています。

本当はザルツブルク旧市街の写真をと思ったのですが、既に前記事で出し尽くしてしまったので、記念碑でお茶を濁しました。
もっと撮っておけばよかったです...

さて、何故またザルツブルクかというと、ウィーン定住に慣れてきたMozartが里帰りをするためです。

旅程込みで約半年という短期間のお話しではありますが、残念なことにこれがMozartにとって最期のザルツブルクとの思い出となるため、敢えて章を分けておきました。

さて、ウィーンでの仕事も私生活も順風満帆にスタートさせたMozartにはもう1つの幸せな出来事が訪れます。

1783年6月11日、第一子Raimund Leopoldを授かるのです。

母となったConstanzeの証言によると、丁度この出産の際に、《弦楽四重奏曲第15番 ニ短調》(K.421)の第3楽章が書かれたとされています。

この曲は、後に"ハイドン・セット"と呼ばれる弦楽四重奏曲集の中の2つ目として有名ですが、この"ハイドン・セット"が着手されたのもこの頃からだったようです。
この"ハイドン・セット"についてはまた後ほど触れますね。

その後、子を保母へと預けたMozart夫妻は、同年7月末にザルツブルクへと帰郷します。

これはMozartにとって、《イドメネオ》の為にザルツブルクを発って以来約2年半ぶりの里帰りとなりました。

恐らく、この帰省による嫁姑ならぬ嫁舅問題はそこまで進まなかったでしょうが、Mozart夫妻はこの滞在中、Mozart親子や旧友達との交流を楽しんだようです。

加えて、Mozartはこの帰郷中、聖ペテロ大修道院附属協会にて《ミサ曲 ハ短調》の初演を行っています。

これは、MozartがConstanzeとの結婚問題で悩んでいた頃、結婚が無事叶った際はミサ曲を故郷の教会に奉納しようと心の中で誓っていたものを実現させた形になります。
何気にロマンチックですよね。

聖ペーター教会

"ペテロ"と"ペーター"の違いはなんなんですかね...
分かる人是非教えて下さい!

取り敢えずここが《ミサ曲 ハ短調》初演の地になります!(投げやり)
流石は初演の地、そしてザルツブルクとあって、今でもこの教会で《ミサ曲 ハ短調》が歌われているようです。

聖ペーター教会内

大聖堂とは異なり、静かで地元の方々の為の教会といった雰囲気でした。

この教会で行われた《ミサ曲 ハ短調》の初演では、ソプラノ独唱部分をConstanzeが担当したそうです。

先述の通り、このミサ曲は誰からの依頼でもなくMozartが自発的に書いたものです。
もしかしたら、故郷への奉納の気持ちの他に、父や姉に向けて妻Constanzeをアピールしたかった狙いもあったのかもしれません。

そして実は、このミサ曲もレクイエムと同様、Mozart未完の教会音楽となっています。

レクイエムはなんとか補筆されていますが、このミサ曲については手がかりが少な過ぎる為にクレド(信教)とアニュス・デイ(神羔頌)が抜け落ちた状態のまま現在に至っています。
残念だ...

このミサ曲初演の翌日(10月27日)、Mozart夫妻はザルツブルクを後にします。
約3ヶ月の短い滞在でしたが、これがMozartにとって最期となる故郷の景色になりました。

ザルツブルク駅

私の旅行におけるザルツブルク最後の写真です。
早朝のウィーン行き電車で移動したため、閑散としたホームの朝焼け写真になりました。
ザルツブルク、また訪れたい場所です。

さて、ザルツブルクを後にしたMozart夫妻はウィーンに向かう途中、リンツに滞在します。

そこでの演奏会の為に急遽書かれた曲が「リンツ」の愛称で知られる《交響曲36番 ハ長調》(K.425)になります。

急遽と書きましたが、その作成日数なんと、4-5日。化け物です。
Beethovenが聞いたら泡吹いて倒れると思う...

その後、11月末にMozart夫妻はウィーンへと戻ってきますが、そこで待っていたのは生まれたばかりの息子の訃報でした。

幼児の死というのは当時珍しくなく、Mozart夫妻もその後も5人の子を授かりますが、天寿を全うしたのはその内の2人だけでした。

因みに、この2人の息子は本章の初めに紹介したモーツァルト記念碑の除幕式(1842年)にも立ち会っています。

偉大な父親の重圧を背負った子供達ですが、その生涯は父親の業績を後世に伝えるために尽力したということです。
ありがてぇ...

Mozartの残した偉大な業績の数々についてはこの次の章でお話ししたいと思います。

9. ウィーンでの活躍

モーツァルト記念像

前章でザルツブルクのモーツァルト記念碑を紹介したので、ウィーンの記念碑も載せておきました。
こちらが本記事のサムネ画像になります。
ピンクのお花で描かれたト音記号が可愛いです。

因みに、後ろに少し見えている建物がホーフブルク宮殿(背面側)になります。
ホーフブルク宮殿の裏手側は緑豊かな公園が広がっていて、多くの観光客が日向ぼっこしていました。可愛いね...

さて、この章では、Mozartがいかにして像が建てられるほどの人気を大都市ウィーンで博していったかをお話ししたいと思います。
章をまとめる都合上、前章と一部時間が前後しますがご了承下さい...

先述の通り、ウィーン定住を始めたMozartにとって、演奏会への出演は重要な収入源となっていました。

元々、Colloredo大司教の命令で演奏会に参加していた頃から、Mozartの演奏はウィーン住民からの評判が良く、Mozart自身も演奏会が収入源になると見込んでウィーン定住を決めたものと思います。

Mozartの開いた演奏会は数多くありましたが、中でも最初の大きな演奏会となったのが、1873年3月に行われたブルク劇場での公開演奏会でした。
ザルツブルクに帰郷する4ヶ月ほど前のことですね。

ブルク劇場 正面横から撮影

相変わらず正面の写真ではありませんが、ご覧の通りオペラが催されるような劇場ともなると大きい上に座席数もあります。
そのような劇場であっても、大入りとなったこの公開演奏会を、当時の新聞では次のように記しています。

いつも途中で退出する皇帝が演奏会の最後までつきあい、聴衆も「ウィーンでは他に例がないほど、一致した拍手喝采を送った」

《後宮からの誘拐》に続いてこの公開演奏会にも列席したヨーゼフ2世がこの頃から既にMozartを高く評価していたことが伺えます。

因み、にこの演奏会で演奏された有名な曲は、ハフナー交響曲の愛称で知られる《交響曲35番》(K.385)があります。

これはザルツブルクの友人Haffnerの爵位授与祝いの為に父から依頼されて作られたものですが、その制作期間は《後宮からの誘拐》後の7月〜8月の1ヶ月という短期間で作曲されたそうです。

その後、ザルツブルクへと帰省し、再びウィーンへと戻ってきて迎えた1784年も、28歳の働き盛りであるMozartにとって、作曲及び演奏会への出演で大忙しの年となりました。

記録に残っている限りでも、この年の2月から4月にかけて行われた演奏会は少なくとも計25回に及び、どれにおいても大成功を収めたようです。

しかしながら、ここまで演奏会が多くなってくると、流石のMozartといえど自分で書いた楽譜の管理が必要になってきます。
こうして、作られたのが所謂「自作目録」です。

そこには作曲日、題名、楽器編成などがまとめて書かれており、研究者の人たちにとっては欠かせない貴重な資料となっているそうです。

また、この年の秋には次男Karl Thomasが誕生し、その8日後には「フィガロハウス」と呼ばれるアパートへと引っ越します。

モーツァルトハウス

実のところ、Mozartはウィーンに来てからかなりの頻度で引越しをしているのですが、現存しているのはこの「フィガロハウス」だけのようです。

こちらも、ザルツブルクの生家や住居と同様、現在は博物館として運営されています。

但し、ザルツブルクに居たLEGO Mozartは居ませんでした...

モーツァルトハウス内より撮影

こちらでも日本語によるオーディオガイド付きとホスピタリティ高めです。

恐らく修復等はされてることと思いますが、部屋の内装は当時のままということで、部屋間の移動や窓の景色などを見ながら当時の生活に思いを馳せました。

また、部屋の中での撮影NGだったので写真はありませんが、Mozartが楽譜に残した弟子への書き置きだったり落書きだったりが見れて最高に楽しかったです。

さて、この「フィガロハウス」では、1785年初頭に古典派の巨匠Franz Joseph Haydnを招いた有名な私的演奏会が行われています。

この演奏会は2回に分けて行われ、その演奏ではMozart自身がヴィオラを担当し、2回目の演奏会では、息子を訪ねてウィーン訪問していた父Leopoldもヴァイオリン奏者として参加しています。

そこで演奏された計6曲が、後に"ハイドン・セット"と呼ばれる弦楽四重奏曲集になります。

この6曲は、1782年から1784年の冬にかけての約2年間に作曲されており、早筆で知られるMozartにしてはかなりの時間が費やされました。
下記にその6曲をリストアップします。

① 第14番 ト長調 (K.387)『春』
② 第15番 ニ短調 (K.421)
③ 第16番 変ホ長調 (K.428)
④ 第17番 変ロ長調 (K.458) 『狩』
⑤ 第18番 イ長調 (K.464)
⑥ 第19番 ハ長調 (K.465) 『不協和音』

ハイドン・セット

通称、『狩』で知られる第17番が1番有名かと思いますが、確かにこれが1番Mozartらしい曲な気がします。

この演奏会に招待されたJ.Haydnは、「弦楽四重奏の父」の愛称で知られている通り、弦楽四重奏の形式を整えただけでなく、数多くの弦楽四重奏曲を残しています。

Mozart自身も、ウィーン以前よりJ.Haydn及びその弟のM.Haydnの影響を強く受けており、この"ハイドン・セット"にしても、1782年にアルタリア社から出版されたJ.Haydnによる6曲の弦楽四重奏集《ロシア四重奏曲》に感銘を受けて着手されたと言われています。

因みに次世代エースのBeethovenはMozartの作った"ハイドン・セット"の中の第18番を好み、彼のOp.18 弦楽四重奏曲集はこの曲を研究して作られたそうです。
Haydnから始まるウィーン古典派の流れがアツいのはこういうところなんですよ...!

モーツァルト(左)とハイドン(右)の肖像

MozartもJ.Haydnも同時期(ウィーン古典派)における有名な作曲家ですが、その歳の差は24歳と親と子ほど離れています。
加えて、その生い立ちや性格、音楽的な成長の仕方もまるで異なりますが、その関係は頗る良好なものでした。

この演奏会で演奏された"ハイドン・セット"は同年秋に《ロシア四重奏曲》と同様、アルタリア社から出版されますが、そこでMozartが残した献辞はイタリア語で下記のように始まります。

親愛なる友ハイドンに
自分の子供を広い世界に送り出そうと決心した父親は、それを、幸運にも自分の最上の友人となった巧妙な方の保護と指導に委ねられるのが当然のことだと考えました。
高名なお方、そして私の最も親愛なる友人よ、これが取りも直さず、私の6人の息子です。

1785年9月1日 アルタリア社より出版

ここでMozartは、自身の作曲した6曲を息子に例えて、最上の友人である「弦楽四重奏の父」へと委ねています。
MozartからJ.Haydnへの心からの尊敬と親愛が伝わってくる素敵な献辞ですよね。

また、J.Haydnにしても、「フィガロハウス」での2回目の演奏会において、ヴァイオリンを担当した父Leopoldに次のように語ったとされています。

誠実な人間として神の御前に誓って申し上げますが、ご子息は、私が名実共々知っている最も偉大な作曲です。
様式感に加えて、この上なく幅広い作曲上の知識をお持ちです。

父Leopoldの手紙より

この2人の優しい関係は、J.Haydnがウィーンを去る1790年まで続きます。
この涙の別れについては、また後ほど紹介したいと思います。

さて、話の流れでサラッと父Leopoldのウィーン訪問について触れましたが、彼は息子の勧めに応じ、1785年2月11日から4月25日にかけてフィガロハウスに滞在していました。

フィガロハウスにて2回目の"ハイドン・セット"の披露日となった2月12日の翌13日、ブルク劇場で開かれた公開演奏会に出演した息子のクラヴィーア協奏曲(K.456)を聴いた父は「満足感で目に涙が溢れた」と残すほど感銘を受けたようです。

また、その公開演奏会には皇帝ヨーゼフ2世も臨席しており、時の皇帝から息子への歓声を間近で耳にしたLeopoldの心中を思えば、さぞ誇らしかったことと思います。

その翌月、父から姉Nannerl宛に綴られた手紙にも、息子が演奏会の出演に引っ張りだことなっている様子が記されています。

お前の弟のフォルテピアノのフリューゲルは、私がこちらに来てからというもの、少なくとも12回は家から運び出しては劇場に、それとも別の邸に運ばれているのです。

1785年3月12日 ウィーン滞在中の父から姉へ

因みに、Leopoldが滞在していたこの1785年の四句節で作曲された《クラヴィーア協奏曲20番 ニ短調》(K.466)は、私の好きなMozart Best3に入るくらい好きな曲なので、この場を借りて無理矢理布教します。

Mozartのクラヴィーア協奏曲の中でも最も完成度の高いと言われているこの曲は翌年1786年春に故郷ザルツブルクでも演奏されたそうですが、その演奏を聴いたM.Haydnはその複雑性に舌を巻いたと言われています。

明るく軽やかな曲が好まれたこの時代にはそぐわない複雑さと激情的な表現はどこか新しく、人の感情を掴むような曲だと思います。
故にBeethovenが気に入っていたようです。

さて、息子のウィーンでの活躍を見届けた父は、いよいよ4月25日にザルツブルクへと発ちます。
その際、Mozartはウィーンから10キロほど離れた街まで見送りに出たそうですが、これが、自分の音楽を見守り育ててくれた父との最期の別れとなりました。

Mozartの生まれ持った才能は勿論大きかったかと思いますが、父の指導とプロデュース力が無ければ、これほどまでにウィーン市民に愛される音楽家にはならなかったことでしょう。

ただし、当時のMozartは29歳。
まだ若く、父への感謝と尊敬に気づくよりも反抗心に気が回る年齢です。

加えて、この度の父の訪問においても嫁舅問題に終止符は打たれることなく、この後もぎこちない関係が続いていきました。

それでも、Mozartの全盛期と言えるこの時期を、Leopoldが直で目の当たりに出来たことは父として幸いだったと思います。

さて、この全盛期というのは主に「演奏家」それに伴う「作曲家」としての名声を得たことを指しています。
何か足りないと思いませんか?

Mozartの偉大な部分というのは、一般に、ジャンル問わず全てにおいて名作を残した点にあります。

現時点では主に室内楽ジャンルにフォーカスしていました。
それでは、劇場はどうだったのでしょうか?

彼が好んだ「オペラ」の作曲家としての活躍についてはまた次の記事でお話しできたらと思います。

中編あとがき

結局記事2つ作っても終わってないじゃん...!!

安心してください、読者の皆さんと同じくらい私も驚いています。

本当はもっとサクサク書くはずだったんですが、意外と書きたいことが盛りだくさんだったんですよね。

「書きたいことが増えると、まとめるのも難しくなる」という負の相関があることに今回初めて気付かされました。

ということは次回の方が泥沼なんじゃないかと思います...えーん(泣)

それでも読んだるで!という心優しい方々は、もう少しだけお付き合い頂ければと思います。

次回で締めることを約束します。(自戒の念)

それではまた次記事でお会いしましょう。

6/24/'24
後編も出来ました!

参考資料

西川尚生(2005), 『作曲家◎人と作品 モーツァルト』, 音楽之友社

柴田治三郎(1980), 『モーツァルトの手紙 (下) ー その生涯のロマン』, 岩波書店

水谷彰良(2019),『サリエーリ 生涯と作品
モーツァルトに消された宮廷楽長』, 復刊ドットコム

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