やさしさなんて本当にあるのか
だんだんと太陽が出てないと肌寒くなってきた。
夜、散歩するのが楽しみな時期だ。
静かな夜は考え事をするのにぴったりで。
最近は、やさしさについて考えてる。
難題すぎたが。笑。
ずっと考えていたけど、わからなかった。
私が人にやさしくするときって心に余裕があるときだ。
逆に心に余裕がないときは自分のことに精一杯で優しい行動をとることを忘れてしまう。(皆んなそうだろうと勝手に思ったりもした)
これは、感情に流される自分が幼いが、その「やさしさの許容範囲」は人は皆持っていると思った。
「やさしさの許容範囲」つまりキャパシティーは必ずあって、限界に達するとどうしても人にやさしくできない。
環境、出来事においてそれは変動するのではないか。
そして、いろいろ考えた結論は、やさしさはただの虚像ではないかということだった。
仏教の教えの中に、このような話がある。
お釈迦様の十大弟子に「神通力第一」、今で言うところの超能力No.1(笑)と言われた、「目連(もくれん)」がいました。
ある日、目連は亡くなった自分の両親が、どのように生まれ変わったか知りたくなり得意の神通力で死後の世界を映し出します。
父は天上界に生まれ変わっていましたが、母は餓鬼道に堕ちた姿が映し出されました。
母は、餓鬼道に堕ちて、餓えや渇きに苦しみ、しかも逆さに吊るされて、
鬼達からの責め苦を受け、無惨な姿に成り果てていました。また母だけでは無く、他の餓鬼道に堕ちた亡者たちも見るに堪えない姿に成り果てていました。
目連は、思わず神通力を使いました。
自分の鉢に、ご飯を盛り、お経と共に、母にお供えをするのですが、母が食べようとすると燃え上がり、口にする事は出来ません。餓鬼の世界では、食べ物を口にしようとすると、燃え上がるため食べられないのです。餓鬼の世界では、決して満たされる事はありません。
目連は、母をどうしたら救えるだろうか?
と、お釈迦様に相談しました。
お釈迦様は「たった一人の力では、地獄や餓鬼の亡者を救う事は出来ない夏安居(げあんご)が明ける7月15日、修行を終えた僧侶に食事の供養をしなさい。そうすれば、母にも、その施しの一端が口に入るだろう」と、言いました。
目連は、お釈迦様の教えの通りに修行明けの僧侶に食事をふるまいましたところ、餓鬼道で、苦しんでいた母はたちまち安らかな天上の世界に昇っていきました。
※詳しくはリンクを貼っておくので、興味がある方は見てみて下さい。
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これを見た正直な感想は、「無理」(笑)
この母の生前の罪は、わが子にだけ食べ物を与えて、同じように飢えているほかの子を無視したことだそう。
だったら、ほかの子とはどこまでの範囲なのか。
もし、その考えなら、世界中の飢えている人を救わなければいけなくなる。
でも、それをするには限界があるとあきらめる人がほとんどではないか。
自分のできる範囲で人にやさしくすることは、エゴではないのか。ただの自己満ではないのか。
私は、世界中の不幸な子供のこと、貧困民で苦しんでいる人のこと、紛争地帯で恐怖に怯えている一般人、そのほか救いの手を求めている人たちを常に思いながら生きているわけではない。
本当に時々、その今まであったこともない人のことを勝手に不幸だと思い込んで、泣いたりもする。そのあとはきまって、本当に自分勝手だなと思う。
だからこそ、時々テレビなどでそういう状況を救おうとしている方々の特集をみると本当に尊敬する。
私は見て見ぬふりをしている。
そして、ときどき見せるやさしさは、自分の生活を豊かにするためのエゴ。
でもそれは、生きようとする上ではしょうがないことだと言い聞かせている。
捨て猫を拾いすぎて、飼いきれなくなってしまう事例はよく聞く。
気持ちだけではどうしようもないことが、ある。
だからせめて私は、今まで私が見殺しにしてきた多くの命を思いながら、自分の人生を精一杯生きていくことが罪滅ぼしだと思った。
こんなありきたりのきれいごとは世の中にあふれていると思うが。
気持ちだけで人が救えたらどんなにいい世の中でしょう。
せめて身近な人たちだけでも幸せになってほしいと思っている。
私のエゴだけれども。
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