私たちの家族や親しい人の死への対応能力は低下している。
「もともと『死』は『生』と同じようにライフイベントとして自然に起こるものとしてとらえられてきたが、医療技術の進歩によって日常生活から切り離されて、死を受容することはむしろ不自然になってしまった。ハイスフィールド・ウルフ
私たちの社会では、死はもはや日常的な出来ごとではなく、病院という特殊な場所に隔離されている。
一般の人は地域社会の中で、死にゆく人に出会うことはなく、
いざ自分の家族が終末期を迎えると、戸惑ってしまう。
死を病院に隔離したために、家族の一員が死を迎えるとき、他の家族構成員は大きなストレスを抱えるが、現在はその対応能力は低下している。」
「緩和・ターミナルケア看護論」の最初のページに書かれている文章。
この文章を読んだ時に、ホントにそうだよなあ。慣れてるはずなんてないんだよ、とハッとしました。
私は家族の死をきっかけに看護師になり、去年から終末期の患者さんが多い病棟で働いています。
ご家族はみなさん、70歳くらいの方でも「こんなことは初めてで。どうしていいか。」とおっしゃる方が多いです。
家族に付き添って、病院に泊まる経験をしたことがある人が何人いるでしょうか。
誰だって、初めてで慣れているはずなんてないですし、すぐに受け入れるなんてできません。私だってそうでした。忘れてたわけじゃないけど、いつも忘れちゃいけないとあらためて思いました。
だからうまくいかないし、
慌てるし、
もめることもあるし、
覚悟なんて決まらない。
後悔することばかりで、
後悔しないようにするなんてできないと思うのです。
受け入れるなんてできないし、
毎日、泣いて、泣いて、立ち直れない。
そんなこと当たり前だし、うまくやらなくていい。
何年立ち直れなくても、
ずっとずっと悲しくてもいい。
私が立ち直れたのは、毎日の仕事と友だち。
緩和ケアの看護師さんがくれた
「毎日ご飯を食べて仕事に行ってるだけで偉い。」というメール。
「いつまでだって悲しんでいていい。グズグズしてていい。」
という友だちの言葉でした。
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