野崎まいり
野崎参り
元禄時代から伝わる行事「野崎詣り(のざきまいり)」は、正しくは無縁経法要というもので、生きとし生けるものすべてに感謝のお経を捧げる伝統行事です。
元禄時代、曹洞宗になってから五代目の大真慈門和尚が寺門興隆を願い参詣誘致に努め、それまで秘仏であったご本尊の特別開帳をおこなったことがはじまりです。当時の大坂の商人層から篤く信仰を受け、大変な賑わいをみせました。
江戸時代から300年以上も続き、近松門左衛門の「曽根崎心中」や「心中天網島」「女殺し油地獄」や近松半二の「新版歌祭文」で描かれています。また、上方落語『野崎まいり』では、桂春団治をはじめ古典落語の演目として多く導入部分に関西三まいりとして、京都祇園の『おけらまいり』と讃岐の『こんぴらまいり』そして大阪の『野崎まいり』と紹介されます。
毎年5月1日~8日までの期間に開催されており、現在もJR野崎駅からお寺に続く参道には数多くの露店が並び、多くの参詣者で賑わいます。
屋形船
東海林太郎の歌う野崎小唄の歌い出し「のざきまいりは屋形船でまいろ~」の屋形船は大阪城の北にある八軒屋浜から寝屋川を遡り徳庵から住道を経由して、現在の野崎駅の南の観音浜まで運行されていました。
明治28年に片町線が開通してからだんだんと川は人の生活から離れたものとなり、昭和の初期にはほぼ船は無くなったそうです。
残念ながら現在では屋形船をはじめ、『野崎小唄』の風景はなくなってしまいました。
野崎観音の歴史
野崎観音は、福聚山慈眼寺といい禅宗のお寺です。
今から1300年ほど前、天平勝宝年間(749〜757年)に大仏開眼のため来朝した婆羅門僧正が「野崎の地は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(ハラナ)によく似ている」と行基様に申されました。感動された行基様は、観音様のお姿(十一面観音)を彫みこの地に安置されましたのがこのお寺のはじまりです。
幾多の戦乱のため荒れはてましたが、元和2年、青厳和尚がこのお寺を復興され、元禄宝永ごろに「のざきまいり」が盛んになると共に、お寺も栄え、現在に到っています。
野崎観音へのアクセス
JR学研都市線(旧片町線)野崎駅東口
より参道商店街を通り約600m
徒歩約12分
大阪府大東市野崎2丁目7-1