神学ダイジェストno.126 特集 女性の叙階 雑感

特集は、『女性の叙階』です。
9つの論文のうち、7つ読みましたのでぼちぼち備忘的に書いていこうかなと思っています。冒頭でビンゲンの聖ヒルデガルト教会博士の考えについての論考があります。
『なぜ女性の司祭叙階を否定したか』
聖女の生没年は1098年-1179年なので、神聖ローマ帝国の初期だし、※(反教会的な考えを表明した途端に異端審問にかけられる時代。だからどうしても護教的なロジックのイメージをパッチワーク的につなげ司祭叙階を男子に限定とする当時の正統性を描かざるを得なかったと思う。);この()内の憶測は私の無知による誤謬なので削除したいと思う。2016年に伝統神学擁護のベネディクト16世により教会博士とされたというのも、なぜ1000年も過ぎてからなのか疑問に思う。この疑問を持つことすら、教皇の無謬性を侵すことかもしれないが。文中のクレルヴォーの聖ベルナルドゥスについてネット検索したが情報なく。書庫の中を漁ると『謙遜と傲慢の段階について』が出てきた。
アウグスティン•トンプソン氏のP22上段『生命の功徳の書』からの引用は、"神"と"男"の間の循環参照に陥ってないだろうか?また"天の雲の高みから•••背丈を持った男は、神を意味している。"の箇所は全く意味不明。
『女のキリスト教史』竹下節子著のP157〜ビンゲンの聖ヒルデガルトについて、女性教会博士として紹介している。聖人は当時の教会を内部から批判していたと記載されている。
父なる神、母なる教会で聖職者は全員男。受洗の時は行き詰った自分の生活のことで頭がいっぱいで何処かに帰属したい一心だった。食住が落ち着いて本来の自分を見つめ直してみると、ジェンダー違和。今の教会をどうこうとは思わない。これからの方向性、聖霊の向かう方はどこなんだろうかと思う。
「ある巡礼者に物語」(イグナチウス・ロヨラ自叙伝、岩波文庫)を読んで、貧困に身をやつしたイエスに倣い、自ら施しを受けて暮らしていく生活を一定時期経なければ聖職者になれないとは思わないのだが。施しを受けて暮らすことの意味は、形而下の事情を承知するということだと思う。

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