苦手な人 使徒パウロ 2

1.Korintherbrief 16-22
Wenn einer den Herrn nicht liebhat,
so sei er verflucht.
liebhat<lieb|haben.t jn.~haben或る人を愛している
verflucht .adj呪われた
“主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。"
これもパウロの誤った言葉。
神からの愛は、被造物からのなんらかの代償を求めるものではない。パウロは勝手な掟を信仰に持ち込んで神の愛を世俗の取引と同レベルに貶め矮小化している。

コリント前書14-34『婦人たちは、教会では黙っていなさい。』について、太田愛人氏は『パウロの手紙を語る(上)』P37-38で言及されてますがあまり明瞭なご説明にはなっていないようです。私はこのようなパウロの発言を平気で載せている聖書は問題ではないかと思います。抑圧は聖霊の働きと対立します。

『パウロは書簡の中で、"natural"という言葉を自然に基づく考えと社会慣習に基づく考えを厳密に区分せず、またストア哲学のように自然法の定義をせずに使っている』と言う指摘がMc.Nielの著書でされている。
ユダヤ人に対してはユダヤ人であるように(コリント前9章20節)、相手により言葉や立ち位置を変えて宣教したパウロの真意は何かを知らず字義通りに読むと混乱しか生まないだろう。結局ローマカトリック教会創設の初期キリスト者の考えがキリスト教社会慣習形成や教義決定、異端審問にも関わってくるのだろう。
使徒行伝とパウロ書簡
マルセル•シモンの『原始キリスト教』は時の権力者を現人神という権威ある者とする東方ヘレニズムの考え方がローマ帝国に後から齎されたという書き方をしている。そして天の国にあっては神に、地上にあってはローマ皇帝に仕える考え方が国教化する上で受け入れやすかったと書いている。こんな視点は持ったことがなかった。そして2022年朝鮮半島のカルト教団が日本での国教化を目指して与党議員と総理大臣に働きかけていた事実が発覚した。江戸時代のキリシタン禁教令は、フランスの反セクト法に通じる法律だったのか?
太田愛人『パウロの手紙を語る』
Mc.Niel 『the church and Homosexuality』
IIコリント9章
4節 恥をかくことになりかねない
5節 渋りながらではなく、惜しまず
7節 各自、不承不承ではなく、強制されてで
   もなく
どこかのカルト教団『献金は自主的なもの』。
『渋りながら、惜しみながら、不承不承、強制されて』でいいと思う。そして嫌ならやめる。無理は禁物です。いい子ぶる必要は全くない。
なぜなら神は全て知っているから。

『あなた方の死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなた方の五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。却って、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい』ロマ書6章12-13節→続
これは一体どういうことか?GIDを超えた教説か?死すべき体を神に献げるのに躊躇する必要はないということであるなら、それが男の体であれ女の体であれその点は神も使徒ペトロも不問で、肝腎なのは体を罪と欲望の道具にせずに神に献げることだという教説のように読める。ただしここは単なる無性主義の偏向と指摘されることかも知れない(女性学から読み直す聖書と神学を唱えるアリス•デルミアンス神学ダイジェスト133号P21)。

"体の欲望“は自然の発露なのでそれ自体は善悪とか罪とかの倫理的評価とは無縁でしょう。ただ社会生活上の視点から“体の欲望“の充足の意思と方法については倫理的、法的、心理的な評価はあり得ると思えるのですが。
第二バチカン公会議公文書
典礼憲章
第1章
Ⅰ聖なる典礼の本質と教会の生活における典礼の意義
以下の節で使徒パウロの書簡が多く参照される
5.救いのわざと過越の秘義
6.典礼における救いのわざの実現
7.典礼におけるキリストの現存
8.天上の典礼につながる地上の典礼
9.教会の活動は典礼に限られない
10.典礼、とくに聖体は恩恵の源泉
11.各自の心構え
12.典礼外の祈りの必要
13.典礼と信心行事
本公文書では本文中に使徒パウロの書簡が直接引用されている箇所もあります。
使徒パウロの言葉を一般信徒の私がカトリック教会の教えに従って理解しているかどうかの検証材料になりますし、私が誤ったメッセージを発信しないよう正すことは重要です。
2022年12月05日(25 典礼書の改訂)まで読了

太田愛人前掲書下巻P19
偶像礼拝→同性愛→人間の悪徳
ロマ書1章29節、ガラテヤ書5章
これ印象操作で短絡的過ぎでしょ?
どう考えてもヘテロセクシャルの人の方が犯罪者は多いと思うけど。
ロマ書7章2-3節『結婚した女は夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中他の男と一緒になれば姦通の女と言われますが、夫が死ねばこの律法から自由なので他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。』→続
太田愛人前掲書下巻P64
太田氏は、パウロに不似合いな例えと述べています。今日では全く理解できない話。この例えは聖典から外すなり、中括弧で朗読から外すなりの対応を考えて良いと思う。
試しにこのロマ書7章の箇所で、夫を妻に、女を男に置き換えてみるとどうなるか。『結婚した男は妻の生存中は律法によって妻に結ばれているが、妻が死ねば自分を妻に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、妻の生存中他の女と一緒になれば姦通の男と言われますが、妻が死ねばこの律法から自由なので他の女と一緒になっても姦通の男とはなりません。』こちらの方が女性を支えるロジックじゃないかな?パウロのこの箇所は神様のメッセージの普遍性(カトリシズム)を伝えているとは到底思えない。家父長制に偏向し過ぎているし、例えばの話だと言えばなんでも2000年も我慢して読めと強いられたくない。
マルセル・シモン前掲書P52からのステファノの章はエルサレム神殿を巡る考えが紹介されていて学びがあった。事実70年に神殿崩壊するのだから要注目。パウロよりステファノが直感的にわかりやすいかもしれないが正誤判定は今出来ない。
使徒パウロが聖母マリアへの信仰や崇敬を表明した記録があるのか探しています。ミサの朗読でほぼ必ず朗読されるパウロの書簡に聖母マリアへの信心の言葉はなくてもいいのでしょうか?
無原罪の聖マリアの祝日にも、聖母マリア被昇天の祝日にも、読まれるパウロ書簡に聖母マリアへの言及はない。
そもそも聖母マリア崇敬の神学的な正統性が認められた公会議は、パウロの死後なのでパウロにその言及が無いことを批判しても意味をなさないかも知れない。神の啓示があれば話は別ですが。


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