大黒摩季さんきっかけで、音楽の旅が始まった… #GWの過ごし方w
おはようございます、Martです。
このGWは仕事もちょくちょく入るので、適度な緊張感を持って過ごせてますね。昨日は仕事で今日は休み、明日はまたお仕事です。
そんな中、家にいる時や移動の時は「音楽モノ」のコンテンツばかり視聴してます。
きっかけはやはり「大黒摩季」さん。
5月1日にNHK FMで放送した「今日は一日大黒摩季三昧!」という8時間15分の番組をマルっとエアチェックしたもので、音源には困りません!(*^^*)
この番組は今週末まで、「らじる★らじる」があるので聞き逃しても大丈夫です。
そこからまた、Youtubeの【大黒摩季ちゃんねる】も見始めて…(これが長いんだ…w)、
などと、今年の我が家のGWは、正に“大黒摩季まつり”になってます♪
まあ、大黒摩季さんはあまりにも偉大すぎて、ちょっとぼくが語るには大きすぎますので、今回は「ぼくの音楽系譜」について語ります。
懐かしい!と思われる方いたら、是非コメントお願いします♪
楽曲が先生だったころ
ぼくが最初に買ったレコードは、モンキーズの「DayDream Believer」だったのですが、その後BeatlesやCarpentersを知り、音楽への興味が芽生えました。
中学1年の時に、親戚のおじさんのギターを譲り受けますが、クラシックギターだったために気に入らず、結局自分で初めて買ったモーリスのフォークギターで楽器を弾き始めます。
はじめて弾ける(曲の伴奏として)ようになったのは、シモンズという女性デュオの「ふりむかないで」という曲でしたね(*^^*)。
今気づきましたが、この楽曲は谷村新司さんの作詞作曲だったのですね!
彼女たちの代表曲は「恋人もいないのに」という曲だったのに、なぜこの曲を最初に弾いたのかというと、コードがCで、オープンコード(セーハしない)で弾けたからです^^;。
その後、吉田拓郎や泉谷しげるなどをラジオの深夜放送で知り、徐々にハマっていきます。
高校生になるとさらにお熱が上がり、井上陽水や古井戸、RCサクセション、風などの楽曲をコピーしたバンドを作ったりしてました。
吉田拓郎がラジオ関東(今のラジオ日本)で放送していた深夜番組で、「親父が死んだ時、はっぴいえんどの「風街ろまん」を聞いて、涙が止まらなかった」と語っていたのを聞き、早速購入。
大滝詠一、細野晴臣、松本隆、鈴木茂の作り出す“日本語ロック”の世界に触れ、エレキギターを持つようになりましたw。
その後、シュガー・ベイブ時代の山下達郎を、たまたま行っていた増上寺のライブで見てから断然気になって、この方面の深掘りが始まりました。
大学生になってからは、「成城大学アメリカ民謡研究会」というサークルで活動していたため、英語の曲を聞くことがふえ、徐々に英語の楽曲も演奏するようになっていきます。
当時はドゥービー・ブラザーズやリンダ・ロンシュタット、イーグルス、ジェームズ・テーラー、カーリー・サイモンなどの最盛期で、Westcorst Rockにどっぷりの時期もあったし、その後知ったオールマン・ブラザーズ・バンドなどの影響で、ブルース色の強いSouthern Rockを聞くようになり、スライド・ギターなども練習してましたねw。
この頃は、実にさまざまな音楽ジャンルの間を行き来して、いろいろ学んでました。
たった一曲の楽曲を好きになると、それを演奏しているバンドを掘り、さらにそのジャンルの別のアーチストを掘り、ジャンル自体のルーツや系譜なども調べたりして、大学の勉強よりもしっかり勉強してましたからwww。
日本の楽曲からは、男の生き方だったり恋愛だったり、日々の暮らしや階級のことなど、まさに“人生そのもの”を教えてもらった感じがします。
ちょうど大学3年生のときにサザン・オールスターズの「勝手にシンドバット」が大ヒットし、衝撃を受けます。
「え、音楽ってこれでいいの?」
このジャケット、好きです!
何故かいじけて体育座りする桑田さんw。
ミュージシャンはかっこよく、スッと立っているというイメージを破壊され、何か屈折しているものを感じましたねw。
当時はちょうど就職の時期とも重なって、もっと音楽で頑張っていくべきか、それともちゃんと就職するべきか、と悩んでいたので、この人達の登場で、かえって“諦めがついた”のを覚えています。
「とてもかなわない…」
というわけで、ぼくの主な“音楽活動”はこれで終了します(´・ω・`)。
音楽で“女性”を知る
最初の就職は、週刊誌を出していた出版社でした。
この頃は“バブル直前期”で、景気は徐々に上向き。
ぼくの入った出版社でも「イケイケ!」の雰囲気はありました。
最初は販売部に配属されてやや腐ってましたが、4年目からは広告部に移籍。
当時は編集部志望だったので、最初はちょっと抵抗があったのですが、
入ってみてビックリ!
当時の広告業界はまさしく百花繚乱!
じつに刺激的な仕事生活が始まるわけです。
その時代は、YUMINGだったり尾崎亜美だったり、竹内まりや、庄野真代などのニューミュージック系の女性アーチストが全盛期で、彼女たちの楽曲を通して「デート文化」が花を咲かせます。
「デート車」や、「メッシー・アッシー」などという新語が登場して、時代の空気を表してました。
その頃のニューミュージック系の楽曲の歌詞は、ちょっと気取ったよそ行きのものが多かったので、そのまま信じると痛い目にあうこともありましたが、そこに登場したのが、大黒摩季の楽曲です。
かなりストレートに本音を語る歌詞に、ちょっと衝撃を覚え、
「あ〜なるほど、女性はそういうところが気になるんだ」といろいろ学んだもんです(^o^)。
ここでは詳しく語れませんが、一度細かく分析したいものですw。
それまでに男としてのぼくが感じてた“女性の神秘のベール”を、少し剥がして見せてくれたようでした。
とはいえ、これも女性全員に当てはまることではないのでしょうが…。
それにしても、大黒摩季さんの楽曲ってかなりラテン要素が強いですね。
どちらかというとブラジル系だけどw.
音楽を提供する
その後いろいろあって、もちろん仕事や子育てなどで、音楽をゆっくり聞いている時間も少なくなったことにより、音楽とは少し距離をおいていました。
40歳を過ぎたこと、フリーになるにあたっていろいろメニューを増やす意味で、スポーツクラブでも働けるように何かインストラクターの資格を取ろうと思って探していたところ、「キックボクシング・エアロビクス」のインストラクター養成講座が家の近所にあることに気づき、キックボクシング・ジムに通いはじめました。
幸いキック・エアロのインストラクター資格と同時に、そのジムで働けることになり、そのうちにエアロだけでなく、キックボクシングのインストラクターとしても働き始めます。
ほかの仕事もあったので週末が主でしたが、最初はとても充実していました。
しかしある時、「なんで週末まで裸の男達と汗まみれでしばき合ってるんだ?」と疑問に思い、多少は色気のあることがしたくて、ラテンダンスの世界に入ってみます。
SALSAとの出会いです。
ラテンダンスはほとんどペアで踊るものでしたから、最初は非常に緊張してぜんぜんできず、何回も諦めかけましたが、幸い同じように苦労する仲間もいたことから、半年くらいで少しは踊れるようになると、これが楽しい!
まあとにかく踊りまくりましたわ(*^^*)。
しかし何年かやっていると、単にフリーで踊っているのにも飽きてきます。
そこで、イベントを開催して金儲けをしようと思いたちそんなこともやり始めたもので、だんだん深入りしていきますw。
最終的にはリスクの多いイベントを開催するよりは、スタッフとして参加できる方法を探り始め、「DJ」というポジションを手にしました。
「サルサのDJ」が他ジャンルのDJと決定的に違うのは、
「曲の切れ目を設ける」
という点。
普通のDJさんたちって、ビート合わせなどで出来るだけ曲と曲の継ぎ目を感じさせないようにミックスするのに注力していきますが、ペアダンスであるサルサの場合は、新しい相手との出会いを促すように、曲が終わって別の曲になったことを、はっきりオーディエンスに伝える必要があります。
また、速い曲などをかけた後は、すこし息が抜けるようにゆっくりめの曲をかけたりと、BMPも極端に変えたりする場合もあります。
場が盛り上がっていれば、逆にさらに速い曲を掛ける場合もありますしね。
これらの“上げ下げ”と、如何にみんなに気持ちよく踊ってもらえる曲をつなげるか、がDJのUDE!ってやつになりますねw。
ここで、「音楽を提供する側」に回ったことで、ぼくの音楽勉強は再び開始します。
時間があればこのあたりをじっくり書いていきたいところですが、
かなり長くなってしまったので、今日はこのへんで。
No Music. No Life.
この言葉は、昔何かのCMに使われたコピーですが、
実に言い得て妙ですね!
音楽のない人生なんて、考えられない!
歳とともに思考や好みは変わっていきますが、いつ何時でも音楽とともに有りたいと思うし、一度ハマってしまうと抜け出せない魅力があります。
これからも、音楽とともに生きていきたいと思います。
ではまた!
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