峠の道を撮影
イタドリがすくすくと伸び始めている。
峠の道は現在県道が走っている。今では車で走り抜けるばかりのこの坂道のふくらみに車を停めて、山手のほうを歩いた。名前を知らない花がきれいだったので、それを撮ろうと思ったのだ。
現在の県道は山を開削して道を造成していて、山と谷に挟まれた日照が少なかろう道だ。歩行路の向こうは谷になっていて、光を求めて木々が道路より高く伸びていて、暗くなる時分には少し怖い。
植物はとても素直だ。そこに芽吹いて、そこに導かれて、水が低きを選んで集まるように枝を張る。その種類に可能な仕方で。
ここから谷のほうに目をむけると、一軒の家がちょうど谷の木が空いて見えている。それが目を惹くのは庭木の鮮やかさによってだ。その家へはこの県道からは直接には行けない。谷の向こうにあって、いちど下りきって浜の近くからもう一本の暗い道に入る必要がある。すこし思案して、この日はその旧道に入っていくことにした。
旧道の入口には、空き缶が斜面の枝にいくつも引っかけられていた。なんだか呪物のようで、すこし不気味。なんの訳があるのだろうと思いながら歩く。空き缶の列はしばらく続いた。ここで飲んで捨てたのだろうか、こんなところで? 店も自販機も遠いのに?
こういうのを人が不気味と感じるのは、そのようになる経緯や心理が読み取れないからだ。そのうえで奇妙な規則性や意志がはたらいていることだけは感じ取れてしまう。そのよく分からなさが不気味さになるんだな。
社会的に生きていた当時はこの旧道をバスが走っていたと聞く。現在の県道は2車線道路で歩道もついているが、旧道にそのような配慮はない。バス1台と対面すれば、一方がふくらみのあるところまで下がらなくてはいけない。現県道と違い山の襞に倣って蛇行する。この道がいつ格下げになったのか、つまり現県道が成立したのか知らないものの、まだ個人車両が少なかった時代にはそれで道として適っていたのだろう。この道を通った当時と今の道を通う現在は、きっとこの峠のイメージを変容させている。この谷地を奥へとのぼる峠の道はひとつの峠をふたつの峠にしている。
新道が成立して整備が止まった道は次第に崩壊をあらわにしていく。私たち生物のからだが古い細胞を入れ替えて生物として次へと持続させているのと同様、生物が作ったものはその生物を組織として、それが流れている限りで代謝を繰り返している。それはこの旧道の荒れた風景が新道にも当てはまることを意味してもいる。遠い先の話ではなく、時々刻々と崩壊している現在を、どしどし更新して道路の景観を一定の秩序に維持しているということだ。
ああいいな。壊れていくものには執着がない。その時が来ただけ、来たのでその時をするだけだ。廃道も廃墟もこうしてだんだんきれいになっていく。
ひと群の石蕗がとても妖艶に映る。この土地では石蕗は山菜としてよく食べるから、景観物としての彼らに気づくには(すくなくとも私には)この廃道が必要だった。ふと以前同人が教えてくれたメープルソープという写真家の植物ポートレートを彷彿とし、このエロティシズムを私も撮影したいと思った。
植物たちにとって弔いと生いとは区別されない。
道を引き返しながら、行き道と戻り道には別の表情があることを思う。同じ空間というものはないのだ。ただ、現在があるだけだ。植物も鉱物もただ現在をしているだけで、これを「廃」や「旧」と言ってしまうのは人間ひとり。彼らの刈り取られず、好きなだけ生い、好きなだけ腐れるこの樹冠に暗く水気を溜めた空間は初めて現在へと生き直される。そこに理想も目標も回帰もない。
管理された美しい庭のある家をふたたび横切り、あの呪物のあるところまで返ってきた。あの家でその呪物が途絶えて奥にはなかったことに気づく。この日は曇っていたが、それでも旧道から帰還した目には明るく、呪物に反射して目に刺さる。そこで呪物が何者かにようやく気づいた。日没後、あの家に帰宅する人が反射する空き缶を頼りにこの道を通っている。たぶん、そういうことだと思ったとたん空き缶から不気味さが消えた。