光学的観想としてのカメラ撮影
玄関を抜けると、数ヶ月の以前から据えたままの鍋に雨風に曝されて湛えた花筏が庭をしずかに彩っていた。鍋は母が据えたもの、取り去らなかったのも母の業からなる。
そこに水辺のあることと、そこに散る花弁のあることは、花笠あるもとに現前する。
裏の山では車のかたちにひとときの轍を跡す杉の葉もあり。石蕗、羊歯はくすんでもなお緑をとどめる。
遺れるものに幸いがとどかずあるだろうか。
枯れあり、また繁りあり。そのいずれもあってある。
それは天然にのみ留まりもせず、建築のうえにも現われる。
生え延びる蔦にも根にも劣らず、その美しい窓や排気管の構成に目を瞠る。
その明暗をばかり追い、たどり着いた非常階段。
なお進み、やがて路地へと入る。朽ちるものと栄えるものの併存が美しい。
勾配を辿るうちに寺へと至る。
市街地を離れ、このあいだの鳥の足跡を撮影するため北上したが、それどころではなかった。
美しいものだけが美しいのではなく、あることはそのまま美しいものになる。
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