記憶

4月にはいって日記をつけ始めた。三日坊主の癖があるのに、3年間のダイアリーなんぞ買ってしまう。よくそういうことをする。最初だけは意気込むのだ。

いかん、また否定的になってしまった。よくこういうことをする。こうやって反省を表すのもまた否定の様式にならっている。

日記をつけるようになったのは、回想するちからを回復する意志によってだ。つねづね記憶が脆弱になり、分散するようになったと思っていた。記憶は思考という作業をする上で重要な役割をもっている。ひと連なりの文章をこうして編めるのも記憶の助けを借りてできている。

昔は書きたいことが後から後から湧いてペンを持つ手にもどかしささえ覚えたものだが、現在はいまにも消え入りそうな、そして書きつけるまえに実際消えていく微小な思考を追いかけて慌てている。

日記はその日の終わりに書くようにしている。その間、日記に書くことを予め決めないようにしている。ルールはひとつ、思念的なことは書かないということだ。いつどこにいたか、せいぜい何を見たかくらいを簡単に書き留めるようにしている。文字に記録されたものは、この場合、さして重要なことではないのだ。記録するという目的によって、日記を書いている私に回想がはたらく、という部分に主眼はあって、読み返すことを用としていない。

いまの私に回想は難しい。昔は日常的に回想していたように思う。四六時中。そのころの回想は回想することが目的ではなかった。回想がメタ認知を生み、思考に転ずる。私はいつも考えていた。自身がその内側にいる認識の世界のかたち、その構造、限界と、認識の転覆……いや、転覆というより、合理的解釈に覆い隠された原初の認知機序への回帰……でも、それに到達してそこを転覆したかったのではあったかな。あんま憶えてないな。

高校のころ、親戚のおばさんが古いワープロをくれた。それに小説を書いていたが、フロッピーを使っていなかったし、ワープロ本体のメモリ量も小さかったので、一定量書いたら印刷しないと先を書くことができなかった。書いていたのは小説だったが、途中まで書いたら印刷して、文章を消し、次の文章を書きはじめる、そういうやり方をしていた。インクリボンがいらないから得だと思って感熱紙に印刷していた。いまではその紙がどこにいったかも分からないが、まだ手元にあるうちに印字は光に読書され、消えていった。

それでも一応数年は判読できる程度でいてくれた。現在の記憶力はあの感熱紙より脆い。目の前にしていないものは立ちどころに忘れてしまう。最初はエピソード記憶の脆弱化が意識されたが、本質的な問題は作業記憶のほうらしいと思うようになったのはほんの2、3年前ごろからだ。

専門学校を卒業後、就職してから自分から感情がなくなったような感覚が生じていた。胸に空いた穴がコンクリートで修復されたような感じがして、自分のなかに入っていくことができなくなった。それまで考えることを中心的な趣味にしていた。趣味というと切実さに欠けるかもしれないが、ほかに適当な言葉が思いつかない。生きがいにも近いかもしれないが、生きがいという言葉のもつニュアンスはあまり好きではない。人間臭いというか生臭いというか。……とにかく、考えている時間に充実を感じていたということだが、それがうまくできなくなったのだった。考えていたのは自分の内面に起こる現象のことだったし、その構造だったから、観察する対象を喪失したという状態だ。

そういう状態が何年もつづいて、少しも回復したようにない。自分史はみるみる失われていき、目の前の景色はディテールを失って白けてしまった。

私はこの状態から回復したいとずっと考えるなにか対象を探していた。が、それは自分の外にあるはずのものではない。いまもコンクリートで埋め立てられている空間にあったものこそ、求められている対象だ。

勉強は嫌いだが哲学や化学はすきだった。パラドックスを紹介する本を読んで思考実験を繰り返したりした。勉強は嫌いなので教養としてそれを学ぶことに価値を感じることはできなかったが、文化人類学に関心を抱いたりなどした。そうしたものを今読んでもいまひとつぴんと来ない。それでも努力して読んでいると疎外が起きる。書かれていることが私になんの関係があるのか、という気がしてもうだめになる。

永井均じゃなかったかと思うけど「大学入学したてのころにはキラキラした目で哲学をしていた学生の多くは哲学を学んでいくうちにその輝きを失っていく」みたいなことをどこかに書いていた。永井じゃないかもしれないがたぶんそうじゃないか。

学問は自分の好奇心をそれに食い込ませ絡ませる対象であって、学問上の一般的な問題に自己を回収されてはいけないと思ったりする。たぶん上記のことは後者の状態を外から観察したのだろうと思う。少子高齢化が社会問題でも、ジェンダーフリーの時代と言われても、自己が抱えている問題意識が食い込める学問を学ぶうちそれらにすり替えられてしまうと、何が楽しくてやっているのか分からないという疎外が起きてしまう。

なんか、日記のことを書くつもりだったのに方向がおかしいな。

ともかく自分がかかえている問題意識それ自体が見えなくなってしまった現在の私は、まず日記をつけるという回想によって、景色に厚みを持たせることから始めようとか思い立ったのだった。

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