「大人は誰か」

これは2009年5月23日に書いた文章である。23歳。

 世界に存在する人間は子供であるか大人であるか、このいずれかである。——とは本当か。大人は子供を知っている。子供も大人とは誰らを指すのかを知っている。しかし、本当に大人や子供は実在するのか。

  1.大人幻想
 子供は親をはじめ多くの大人を知っている。仕事をもち、金銭的自由をもち、倫理道徳をもっている等々、大人の条件を子供たちは知っている。何より、身体的差異が子供と大人にはあり子供はいつも大人を見上げる者である。この物理的現実は看過し得ない。それによって大人も子供も、対象が大人であるか子供であるかを端的に判断するからだ。
 子供は大人という存在を理想化し、自己を大人たれという願望によって、大人を真似る。子供は多く理想的なものを真似たがる。これが子供にとって世界を認識する、あるいは形成する方法である。真似をするとはどのような意味をもった行為といえるか。おそらく真似を促すものとして、所有欲や人より勝った存在でありたいという欲望がある。理想化された対象を真似することはすなわち理想状態の自己を幻想することであり、理想状態の自己は他の誰よりも優れているし、理想の体現は理想の所有である。それゆえに自己の真似を他者に真似られるのを嫌う。所有や優越の幻想が掻き消されるからである。
 子供にとって、身体の絶対的な差異は吃立(原文ママ)するが、それゆえに、大人に幻想を抱き、自らも大人であろうとする意志を生む。まずここに大人という幻想が起きているのだ。子供の思い描く大人は必ずしも大人自身に等号ではない。しかし、幼時に見た大人幻想が大人と子供とに二分する思考の根本になっているのではないか。
 大人幻想について、整理してみる。この幻想をもつ主体はとりあえずは子供である。子供は身体的あるいは社会的差異から大人という対象を自己の集団(子供)と切り離す。そして所有欲とか優越感を得たい欲動によって大人を真似る。子供は真似ることが一つの遊びであり、この場合も例外ではない。遊びであるために、その瞬間子供は実際の大人より大人然としていることもある。

  2.社会参画
 社会参画は近代社会における大人、子供の別を仕切る境界の1つとしてある。しかし、これは必ずしも大人にのみ与えられているといえるのか。牧場や戦後まもなくの子供はこれを充分にこなしている者があるし、また大人にも反社会的で、子供じみた行為に走る者もある。こういった人を「大人びている」とか「子供のお遊び」と形容することはまれではない。はたしてこの線引きは絶対的なものといえるのか。これはあるいは先の大人幻想の延長上につくられた「大人」たち自身による優越感の防衛ではないか。

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