開かれ230612
純白を直視するのが難しい。
捨て置かれたもの、鑑賞されるためでない花。得体を知られる機会から抜け落ちていられる幸いと痛苦。
5月は橋村一彦・るみ陶芸展というイベントがあった。わずか2日間の開催だったのが惜しいと思うほどには刺激的な展覧会だった。
陶芸という芸術分野にはこれまで殆ど触れてこなかったが、彫刻として見ることができた。硬質な素材で有機的な柔らかさを、静物でありながら流動性を纏う……このイメージは、私がゴシック系の作家もの球体関節人形に抱いているイメージと重なり合うところがあり、また草間彌生にも通じる蠢きと生理に訴えてくるものがあった。
蠢きとは自分の肉体に何者かが、這い、のたうち、潜り込み、うねっている心地悪さだ。このニュアンスは一彦、るみ両作品に共通している。侵入されているというイメージとともに、蠢くものこそがグロテスクな自分自身だという叫びのようにも見える。人体のシルエットの不足した自分の一部がそこに表出しているようだ。
この月はまた、姉の帰省に際し母と3人でショウブが見頃の庭園にちょっとした遠出をした。
きれいな庭園だった。
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