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日常性

 新型コロナウイルスパンデミックや東日本大震災がそうであったように、衝撃となる事象の出現によって私たちの日常は瓦解しやすい。そして、これまでとは別の日常性を構築しやすくもまたある。その日常性とはなんだろうか。
 私の個人的な経験として、20歳か25歳くらいの頃にあったショックから話を始めようと思う。それは、人が老いるという実感のことだ。
 人が老いるということは、明言するまでもなく、多くの者が感じているものと思っていた。私自身それを分かっているつもりでいた。私の将来は姉の姿であり、父母の姿であり、祖父母の姿である。いずれ年齢が嵩み、その姿へと移行する、と素朴に分かっている状態といえばいいか。
 しかし、この分かり方は20代のあたりで一度揺れ、その捉え方が崩れることになる。というのは、上記の理解は、個々人と年齢がほとんど等号で結ばれていた、言い換えると、年齢は個々人に固定されおり、経過的側面が捉えにくい観察の仕方になっていた。これは観察できる年数の限界によっている。個別の年齢を単線の上に並べることによって仮想的に捉えられていた老いだったのである。
 これが20代に入ってくると、やや観察できる年数が長くなり、その分、個々人に固定されていた年齢が推移していく様を如実に目撃するようになる。このときの老いは他人の老いとして現れる。特に両親の老いは関係が身近である分よく見えてくる。それは心理学の用語でいう「役割期待」このズレとして現れてくる。
 ヒトの認知はズレに対して敏感である。自分の認識する世界の基盤となっているもののズレに対しては尚更のことである。
 このとき、個と年齢を結んでいた等号が亀裂を走らせ、個のうちに経過する年齢というものを感じ取るのだ。このことから私は、一般的に歳をとると呼ぶ現象を理解するのはこの年齢ごろまで待たなければならないと思ったりした。10代においてはまだ周囲の老いのイメージは時間幅として緩慢だからである。
 そう、老いの訪れは急速なものだ。他人はたちまちに老いる。さっき書いた役割期待のズレというのは徐々に来るのではなく、ある時突然に来るからである。私の個人的な経験としては、18歳で故郷を離れてから、専門学生時代には長休みに、社会人になってからは盆と正月またGWに帰省するサイクルに移行したことが、旧知の人の変化に敏感になったという生活サイクルの影響が大きいだろう(この辺りは小説として書いた「ただ、距離だけが美しい」に書きこんでいる)。
 役割期待とは、相手に期待する役割のことである。キャラともいえるのかもしれない。その人自身の人格のことではなく、他者がその世界認識のなかでその人に期待している振舞い。それは成長とともに変化していくものでもある。
 私はこの役割の変化がとても苦手である。それゆえに期待されているだろう役割に自らはまり込みにいくようなしぐさをもっている。このことは同時にその役割を負うことへの窮屈さを伴うものであり、自己の内奥から湧出する欲望を抑圧することにもなることから、抵抗すべきと私自身に思わせる傾向でもあった。それは現在もそうである。
 さて、私たちの日常性というのは、こうした変化を基本的には捨象している。日常性とはそういうものだからだ。
 日常は言い換えると円環的な時間を生きる事ともいえる。基本的には変化しないものとして世界を捉えることで私たちはスケジュールを立てることができる。この性質は素朴なものであり、私たちはこれを意識せず常に前提にしている。
 見識が古いかもしれないが、ヒトの構成細胞が数年でほとんど入れ替わるという話がある。これを前提とすると、人体は幾つもの細胞の死を幾つもの細胞の生成によって補填しその形を保っていることになる。このイメージは人体を流動的なイメージにしてくれる。動的平衡……とはまた違うかもしれないが、とにかく静止的ではない。
 私たちの意識が変化に鈍感なのには、こうした見かけ上の静止によってその経時性を覆う性質によっており、日常はそれによって私たちに了解や判断可能な時空として現れているのでもある。日常性つまり世界の恒常性を信じられないなら、世界は次々に姿を変えて捉えどころなく、科学公式も効力を失ってしまうのだから。

 現在ではその感性は薄くなってしまったが、私には長いあいだこの素朴に信じられた恒常性が破局する瞬間を恐れるという傾向があった。
 たとえば路上販売のアイス屋に立ち寄ったおじいちゃんと幼い孫の姿を見るのが怖かった。道路の片脇という無防備な場所で、そこを構成するどの人物も素朴な恒常性に倚りかかっていて、ハンドルを取られた二輪車という暴力が介入する可能性を考慮していないように見え、無限にやってくる「次の瞬間」への可能性が怖かった。
 もう少し些細なものでは、あるときレジ待ちをするお爺さんの後ろに並んだエピソードがある。彼の手には大福がひとつ握られていた。私は彼がその大福を口に含むささやかな娯楽の時間を想像した。それは彼にとって既定の将来だろう。この既定と感じられる将来というのが怖い。彼はその辺のちょうど腰かけるにいい花壇の縁に座り、包装を裂く。足許は少し傾斜して、側溝が口を開けている。そんな状況を想像させる。
 そんなことを想像するばかりだった。それは新しい洋服にうっきうきの子供がその日の雨で泥まみれになることだとか、今日の予定のために朝入念にセットした髪が、その予定を失って周囲から浮いてしまっているとか、ちょっとしたことで発動した。だから当時は誰の悪意でもない事故的組み合わせになりかねない物の隣り合わせに敏感だった。
 まあ、これらは余談。今回はこの辺でおしまい。

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