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最果タヒ「死なない」の読解

 『現代詩手帖』2006.5号から最果タヒ「死なない」を再読した。なお同作品は詩集『グッドモーニング』にも収録している。

 家族を虚構(期待され合う役割を成員が引き受けて幻想を共同している他者のない関係)と捉えると、雨は現実(虚構を共同しない外界)に相当する。すると「家族の虚構性と、虚構の根底を覆す現実との間をとりもつ存在」として傘という自覚が生じる。

わたしは
傘でしたが

あめふり、始まった瞬間に窓から捨てられてしまいました。

最果タヒ「死なない」より以下同

 雨を発言すると、窓の内側=家の「かぞく」は雨を受ける危機に立たされることになる。雨は「かぞく」の虚構性を暴き、期待された役割を演じていた成員はその役割さえも失うことで、これまでの関係を破局させる。屋根も壁も失い、雨に晒されていることはできない。そこで、雨を避けるよりは和を乱す分子を家から追放して家=虚構の持続を図る。これが「窓から捨てられてしまいました」である。傘は雨を公言しない限り「かぞく」という形のなかに居られる。が、傘は雨を受けてもいる。雨を知る傘には、家は空しい。屋内では、予め期待された特定の役割が与えられた人や調度品たちが、その役割どおりの顔を相互に送り合う不毛なサイクルに陥っている。傘でない成員からすれば、それが幸福なのかもしれない。傘でないならだ。

けっしてなににも不自由がないように
外でなくてもいいように
あなたたちはひとでなくなる
食料も
文学も
あなたたちは自分でうみおとしていく

 ここに他者=批判者は認められない。甘ったるく凭れ合った人々と、それに従順なものだけが家に招かれうる。

用事
などないように、かれらは動物園を創立してわたしのとなりをトラや白鳥が流れていきました。それから果樹園がつくられ、いつも果糖のにおいがしていました。

 アステリスクを挟んだあと、続けられる詩行は世界に転調を来す。
 捨てられたことによって、「かぞく」的世界は外界の苦痛から目を背ける空中楼閣として、そのなかを生きているあいだに獲得形成したはずのもののシルエットも、「かぞく」の幻想とともに不確かなもの、存在感が希薄なものとなるのだった。
「かぞく」成員もまたその例外ではない。そこにも苦痛が伴う。彼らが彼らでなくなるのは、彼らへの慕わしさから離れていくことでもあるからだ。捨てられる存在であるより、これまでの関係をつづけることにより今後伴わざるをえない苦痛のほうが、まだマシだと思えることもあるだろう。

植物だと思っていたそれぞれが、とても羽をむすばれた白鳥の、あのほそいくびに似ていました。いままで、きちんとみてこなかったわたしは、すべての植物たちをまず疑わなければならなくなった。けれどそのぶん、わたしは、傘を開くことをおそれなくなった。うそを、おそれなくなった。

「かぞく」に愛でられる従順なつる草や白鳥の首の、あの湾曲は傘の持手にも類似する。彼らは愛でられるかぎりで植物や白鳥と同じように「わたし」を愛したが、「あめふり、始まった瞬間に」傘として追放するのだ。

わたしは傘ですか花ですか白鳥ですか

 それが「かぞく」を守る方法だった。雨を黙り、家に帰るには嘘をつくよりないと「わたし」は決意する。
 その後の行で、「わたし」はこどもを懐胎する。「かぞく」の自転から追放される「あなたたちはひとでなしだ」という呪文によって、その子は「わたし」のただひとつの自分が確認できる方法として愛される。

わたしがいないと死んでしまいます、

 その子を雨の脅威から守ってやりたい。それは「かぞく」を再生産する。その子は、過剰な保護のもと「わたし」から離れられない呪縛を植え付けられ、やがて育ち「わたし」のように、雨に気づくだろう。そして「わたし」も、その子を「傘」として捨てるのだ。

ひろわれて
かのじょにさされたい
赤いかわからないけどかわいくもない傘です
さされたい
さしてください
さして雨をよけてください
そしてもし、かのじょが傘なら、(しりたいことが、)捨てられて
いますか、いませんか、

きっと
捨てられています・・
かぞく ですから

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