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『さよならテレビ』 にコロサレル!

子供の頃は大好きだったテレビを見なくなったのはいつくらいからだろう。
子供の頃、寝る時間なのに部屋を暗くして光が部屋の外に漏れないよう必死に見ていたテレビ。
先日の漫才No1決定戦のM-1グランプリを大阪が進める都市連動型メタバースバーチャル大阪にてミルクボーイのMCでLIVE配信していた。
アプリのDLと登録が必要で、本編も芸人のネタ部分以外はテレビで放送されている部分は映らずにミルクボーイが繋ぐという形だったが、2万人以上が視聴していた。
そのコメント欄に溢れていたのが「テレビ持ってないから嬉しい」だった。
いつから私たちはテレビを必要としなくなったのだろう。
いつから私たちはテレビでワクワクしなくなったのだろう。

今回はそんな今のテレビを“報道”という側面から映したドキュメンタリー作品について書きたいと思います。

※“プロデューサー阿武野勝彦とについて”より下は大きくネタバレを含みますのでご注意ください!
またプロデューサーの著書『さよならテレビ』についても一部触れていますので併せてご了承ください。


東海テレビドキュメンタリーとは?

東海テレビドキュメンタリーという映像群がある。
昔から「ドキュメンタリーの東海テレビ」と言われたいた東海テレビが、ゼネラルプロデューサー阿武野勝彦を先頭に作るドキュメンタリー。
その映像群はソフト化・ストリーミング配信一切無し。
テレビ放送や一部のCS/BS、そして東海テレビドキュメンタリー劇場として映画館で上映される時に見なければ一生見ることは出来ない。
その姿勢は多種多様な見る手段がある現代においてはまさに“ストイック”という言葉が似合う。
2021年12月現在『東海テレビドキュメンタリーの押し売り』として特別上映されています。来年は大阪・名古屋でも特別上映されるみたいなので興味のある方は下記を参照してください。
個人的には機会があれば全部見に行きたいと思う。


プロデューサー阿武野勝彦について。

1959年静岡県伊東市生まれ。81年同志社大学文学部卒業後、東海テレビに入社。アナウンサー、ディレクター、岐阜駐在記者、報道局専門局長などを経て、現在はゼネラル・プロデューサー。2011年の『平成ジレンマ』以降、テレビドキュメンタリーの劇場上映を始め、『ヤクザと憲法』『人生フルーツ』『さよならテレビ』などをヒットさせる。2018年、一連の「東海テレビドキュメンタリー劇場」が菊池寛賞を受賞。ほかに放送人グランプリ、日本記者クラブ賞、芸術選奨文部科学大臣賞、放送文化基金賞個人賞など受賞多数。
-著書『さよならテレビ』より抜粋


東海テレビ最大の事件。

東海テレビ報道部には忘れることのできない過去があって、それがいわゆる“セシウムさん事件”

2011年8月4日。情報番組の原発事故の風評被害に苦しむ農家を助けるために行われたプレゼント企画にてダミーテロップ(実際の当選者がわかる前に代わりに入れておくテロップ)であるはずの「岩手のお米 セシウムさん」という言葉が生放送に流れてしまった。
プロデューサーの阿武野勝彦は著書にて「事件は偶然ではなく必然だと思った」と書いている。
リーマンショック以降、弱体化した組織に蔓延した金銭至上主義という病気、必死で“うち”を守り簡単に“そと”を切り捨てる。そんな企業(業界)の今に現れた“鬼”こそがあのセシウムさん事件だったのだと。
それから7年が経った2018年にもう一度セシウムさん事件と、そして報道とテレビと向き合う企画こそがこの『さよならテレビ』だった。


3人の主人公。

映像は取材対象者である東海テレビ報道局のスタッフへ、今回のドキュメンタリー制作に関しての許可取りから始まる。
監督の土方宏史やスタッフにとっては身内であり、相手も報道のプロである。取材対象がどんな状況に置かれるかは充分に理解できるはずだった。
「これは他局も取材するんですか?」
スタッフから余裕の笑い声が漏れる。
しかし取材開始からすぐに取材対象者たちから異論が噴出し、2ヶ月もの中断期間を経る事になった。
「身内なんだから結局編集してもらえるでしょ。」
普段は自分たちが取材対象者と対峙している報道局のスタッフでもこの反応。
いやだからこその反応なのかもしれない。
映画序盤からいかにこのドキュメンタリー制作が難しいかが伝わってくる。
特に編集長を初めとしたベテラン勢のディフェンスはかなり堅そうに見えた。

そこから映像は3人のスタッフを中心に追っていく。
元経済誌の記者でぜひモノ(スポンサーのパブリシティー)要員とされている契約社員の澤村。
東海テレビ史上最大の事件の当事者で夕方のニュースキャスターを務める福島。
そして制作会社から来た新人派遣社員の渡邊。
3人それぞれが抱えるものを通じてテレビ・報道・ドキュメンタリーの今を映す方向へと進む。


カメラは真実を映すことができるのか?

ソ連(現ロシア)の有名な映画監督ジガ・ヴェルトフDziga Vertovno

「私は、私だけに見える世界をみんなに見せるための機械だ」
(参照:『情報エネルギー化社会―現実空間の解体と速度が作り出す空間』

という言葉がある。

「報道というのは真実だ。」
小さい時からなんとなくそんな教育をされてきたような気がする。
「ニュース番組が、テレビが言ってるんだから間違いない!」
そんな暗黙の了解。
大きくなって同じようにドキュメンタリーもまた真実なのだと思っていた。
真実を切り取った映像が報道でありドキュメンタリーなんだと信じていた。

真実を切り取る…?

ではそれを切り取っているのは誰なのだろう?
その人はなぜその部分を切り取ろうと思ったのだろう?
切り取られた部分以外の“そと”の部分には真実は存在しないのだろうか…
ジガ・ヴェルトフの「私だけに見える世界」が「私が信じる世界」のようにぼやけて見えてくる。

3人の主人公の葛藤や苦悩が次々と流れていくスクリーンを見つめながらそんな事が頭の中に浮かんでいた。

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真実のない世界で。

ドキュメンタリーとしての“美しい”方向に進みながら物語は終盤を迎えていく。
それぞれの葛藤と苦悩。そんな事はお構いなしにやってくる非情な現実。

しかし主人公の1人である澤村の「このドキュメンタリーは本当にこれでいいんですか?」という一言で状況は一変する。

そこから映し出されたのは、
スタッフがお膳立てしていた取材対象者と奇跡の再会を果たしたかのように振る舞う主人公。
取材を申し込んでいる側のドキュメンタリースタッフから裏でお金を借りる主人公。
部下に対して怒鳴る上司を「良い感じで悪人に映っている」と高笑いする主人公。

それまでスクリーンに映っていた、もがき苦しみながらそれでも大きな組織や冷たい社会に立ち向かって敗れていく悲劇の主人公たちが、私の前から脆くも崩れ去っていく。

カメラという不特定多数の人の目がある。そして撮った映像を誰かが意図を持って編集する。
その時点で真実なんてものはどこかに泡のように消えてしまうのかもしれない。
いや、そもそも真実なんてものがこの世の中にあるのだろうか。
現実がそのままイコール真実とは限らない。
みんなそれぞれが信じたい真実というものがきっとあって、意識的にもしくは無意識的にその方向にいくらでも形を変えていく。
では小さい頃からニュースが報道がドキュメンタリーが真実だと叩き込まれてきた私たちは梯子を外された今、一体何を信じていけば良いのだろうか?
社会の輪郭が定まらない現代で私たちは何を拠り所に生きていけば良いのだろうか?

きっとこの物語がそんな私たちに示してくれた事は自らの目を磨いていく事なのだと思う。
「どれが悪でどれが善で」「誰が味方で誰が敵で」「何が現実で何が真実なのか」結局は自らの目で判断して選択する事しかできない。
誰かの真実に迎合する必要はない。
自らの見開いた目で自分の大切なもの、そして社会に必要なものを見極めて進んでいく。
文字にしたら簡単で凄く当たり前の事かもしれないけど、そんな風にこの時の私には感じられた。

結局、真実って何なのだろうな。
余計にわからなくなっちゃったな。でもそれで良い気もする。
この話をしていた時に友達が何気なく放った、

「でも最後は熱量。それしか伝わらない。」

という言葉に少し救われた気がした。


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