一人で死ね、の成れの果て

2019年5月28日、川崎市登戸で、50代の男が、通学バスを待っていた小学生とその保護者を次々殺傷し、自殺した。

https://www.buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/caritas

これに対して「死にたいなら一人で死ね」という声が上がった。
気持ちはわかる。生きたい、傷つけられたくない、という本能をもって生きている人ならば、見知らぬ人の自殺に巻き込まれたくはない。例えば、ビルから飛び降り自殺をした人が落下してきた、その体に直撃されてたまたま通りかかった「私」や「私の大事な人」が死ぬのは嫌だ、と思うのはごく自然なことだろう。

しかし、「一人で死ね」に対して「そんなことを言わないでほしい」という声も出た。
そう言える著名人がいるこの時代に生まれてよかった、と私は思った。社会は成熟してきたのだろう。
前述の「巻き込まれたくはない」思いは「私一人」の幸福を優先している(それでも、もちろん当然の本能だ)に対し、「一人で死ね、と言わないで」は「見知らぬ誰か」の幸福も願っている。社会はこうやって成熟してきた。狩りをして、私と私の家族の食い物を得ることから、農業をして、私と私のムラの食い物を得るようになり、やがて産業を行って、私の住む社会の利益を追及し始めたように。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190604-00064993-gendaibiz-soci

https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20190529-00127888/

しかし、先日、こんな事件も起きた。
https://www.sankei.com/smp/affairs/news/190603/afr1906030013-s1.html
40代の無職の息子を、70代の父が殺したのだ。
この事件は、一つめの事件より、私には辛かった。なぜならこれこそ「一人で死ね」の成れの果てだと感じたから。
父は、息子が他者を巻き込んでしまうよりは、「一人で死ね!」と息子を刺したのだ。何度も何度も。それは、世間の声だ。児童を巻き込むくらいなら、事件を起こすくらいなら「一人で死ね」「私を巻き込むな」「迷惑だ」という無意識の大合唱が、父を殺人者にした。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190610-00017841-mimollet-ent&p=2

「一人で死ね」の前に、言う言葉があったでしょう?
「一人で死ね」の前に、できることもあったでしょう?

「私にできることはありませんか?」 
「誰か、息子を助けてください」

どうか、どうか、我が身を守るだけの社会から、私もあなたも幸福な社会へ、進歩していきますように。

殺された方々も
一人目の加害者も
殺した父も
殺された息子も
私も
あなたも
幸せでありますように。

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