その言葉の裏側
お正月、最寄り駅。
一緒にいた父が、改札口付近に、キャリーをもった家族風の数組をみて、言った。
「あいつら日本人か?」
私は答えた。
「日本語で話してるから日本人だとは思うけれど、日本人でなくてもいいんじゃない?」
父はちょっと笑って黙った。
私は、母の宗教で抑圧されて育ったせいもあって、本来思春期に必要な、「親って大したことねぇな」感、つまり親への万能的信頼感が崩れる経験をしてこなかった。
それが今大人になってやってきている。
私は父の、この考えのない発言を、恥ずかしいと思う。
父を始めとする、老年期世代の人々は、
ホ○とかオ○マとか平気で言い
ガイジンが多くて邪魔だと平気で言う。
父は少し賢いから、昨今それはまずいと気づいているが、それでも口をついて「あいつら日本人か?」と出る。
父に聞いた。
「なんで日本人かどうか気になったん?」
「だって中国人うるさいやん」と父は答えた。
人は、自分に耳慣れない言語を「うるさい」と感じると言う。
司馬遼太郎によれば、それは平安時代にもあり、異国から来た人々のことを「獣がなくようにうるさい(何て野蛮な連中だ)」と表現している文献もあるそうだ。
(司馬遼太郎著「空海の風景」参照)
と、こんな小難しいことを言っても、対話は開かれないだろうと思い、私も父も関西人なので、私は父にこのように伝えてみた。
「大阪のおばちゃんもだいぶ賑やかだと思うけど・・・」
すると父は「せやな」と言って同意した。
父たちも知っている。
中国人「だから」うるさいのではない。
「うるさい」人たちが一定層いるだけだ、ということ。
でもそれを、深く考えることなく、○○人は××、と決め込んで良かった時代も確かにあった。
この時代に育った人に多い(がしかし、この時代の人に限らないし、この時代の人でもそうでない人もいる)のだが、ある人たちは、深く考えずに
「LGBTばかりになったら国がつぶれる」と言う。
しかしそう言いたくなった理由を考えて欲しい。
あなたは心の底から、一つの国家にストレートがいなくなる事態が生じると思っているのか?
もし、あるとしたら、それはわざわざストレートを廃した国家だろう。
そこではストレートが弾圧されるのだろう。
そんな国家が自然発生的に生じると、心の底から思っているのか?
きっと、否だろう。
ではその発言は、どんな意味があるのか?
どんな気持ちで「LGBT だけになったら国がつぶれる」と言ったのか。
なぜそんなことを言いたくなったのか。
負け惜しみではないのか?と私は推測する。
父が観光客でごったがえする駅をみて、自分がスムーズに使えないことを悔しいと感じ、
その悔しさをぶつける相手として「外国人」を選んでしまったように。
昨今LGBTQへの支援や擁護者が増え、昔のように○モとかオ○マとか言って気軽に笑えなくなった、自分達の環境が悔しくて。
これなら正しいだろう、言ってもいいだろう、という幼稚な発想で。
考えなしに発言する人は、悪意がない分、分かっていて悪意を持って発言する人よりたちが悪いかもしれない。
だけど私は思う。
父が聞いてくれたように、彼らの自尊心を傷つけずに、考えを促すポイントを触っていけば、
考える能力のある人であれば、きっと自らの発言の意味を考え、これから自分がどうしたいか考え直すことができると。
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