1パーセントの可能性
「ブラックバード」という映画を見た。身体の自由が徐々にきかなくなる病気に侵され安楽死を選ぼうとする母親と、その最期を看取ろうとする家族の物語だ。
目の前に迫る死を振り払うかのように明るく振舞う母親とその家族。不自然なほどの明るさに何となく居心地の悪さを覚えていた。ラストに一波乱はあったものの、見終わった後も違和感は消えずじまいだった。
映画の後に本屋で立ち読みをしていたところ、その正体に思いあたった。そう、映画の中の母親はまるでAIのように振舞っていた。機械的に受け答えをする訳ではない。あらゆる数式に答えがあるように、全てに綺麗に整理をつけていたのだ。
AIは高い確率で成功する方法を最短かつ的確に選び出す。感情は必要ない。必要なのはデータだけ。1+1=2に過ぎず、それ以上でも以下でもない。死ぬ前の母親はあまりにも冷静で(新たな事実を聞かされ、時には感情的になったが)分別があった。いや、あり過ぎたくらいだ。
前から時間を掛けて心を整理したからだという人もいるかもしれない。もちろん、それは否定しない。しかしね、と思うのだ。数式に当てはめて正確な解を導き出すように、人間があらゆることに的確に答えを出してしまっていいのだろうか、と。
1パーセントの可能性があれば、チャレンジするのが人間だ。結果が出るかどうかはわからない。でも、やる。とりあえずやってみる。そんな矛盾を抱えながら生きていくのが人間であり、人間ならではの愛おしさでもある。
そうした矛盾を削ぎ落とした先に、人としての未来はあるのだろうか。AIに脚色された人間ドラマが生まれるのも、もしかしたらそう遠くないのかもしれない。