見出し画像

追憶の五反野 -浅野編-

 盆には帰って来いと言われて、足立区の実家にいた。
 仕事をするために住まいからPCを持ってきていたが、ひと通り作業を終えてしまい、暇を持て余していた。

 今日は夏休み最終日で、明日から仕事が始まる。猛暑の日曜日だった。
 昼飯も済ませ、家には近所のオバサン連中が涼みに来ていた。うちは町会の溜まり場のようになっていた。俺は2階の自室のベッドに寝転んでケータイをいじっていたがとっくに飽きてしまい、夕飯までの時間をどう潰すか悩んでいた。

 時計を見ると3時を過ぎていた。町屋の住まいに一時帰宅するには時間が足りないし、このクソ暑いのに近所の銭湯やサウナに行くのは正気の沙汰じゃない。ここらはパチンコ屋がたくさんあるが博打の趣味はない。そもそも金もなかった。

 というわけで、何となく散歩に出ることにした。
 一人暮らしをしている町屋の住まいから実家のあるここ足立区弘道までは距離が近いので、年間で何度も実家には顔を出していたが、生まれ育ったこの町をぶらぶらしたことは、家を出てから10年間一度もなかった。果たして町並みはどれくらい変化したのだろう。炎天下で散歩をするのは少々気が引けたが、何もせずじっとしているよりは楽しめるはずである。
 ケータイ、財布、タバコを持ち、意を決して外に出た。5歩くらい歩いて暑さのあまりもう引き返そうかと思った。

 歩いていると、最寄りである五反野駅前の商店街に、俺が知っている建物はあまり残っていなかった。コンビニは郵便局になり、郵便局はシャッターの閉まったただの家になっていた。見覚えのない店が並んでいた。昼下がりなので閉まっていたが、イタリアンレストランが近所にあって驚いた。五反野の人間がこんな洒落たとこ行くのか。ワインとファンタグレープの違いもわからんだろうに。

 適当にあてもなく歩いていると、公園があった。ようやく見知った場所に辿り着いて、少し嬉しくなった。

青井ふれあい公園

 ここは家から徒歩10分かからないくらいの場所にある、少し広めの公園だった。学区で言うと隣の小中学校の地区にあたる場所にある。
 当時、この辺りの子ども達の間では、公園に縄張りを敷いていた。大抵、小学校の学区内にある公園は、その小学生達の縄張りになる。
 俺が今いるこの『青井ふれあい公園』は、青井にある小学校に通う子ども達の縄張りで、隣の弘道に住む俺達は彼らからするとよそ者だった。下手に立ち入ると揉め事が起こったり、逆に仲良くなって一緒に遊んだりしたものだった。

 俺達はこの公園が割と気に入っていて、よく出入りしていた。魅力は、大きな煉瓦造りの階段だった。

 この公園は、煉瓦造りの遊歩道が真ん中の砂地を囲むように作られていて、砂地はボール遊びをしたり鬼ごっこをしたりする広場になっていた。この遊歩道から広場に降りられる横に広い大きな階段があって、俺達はそこを自転車で下って真ん中の広場でドリフトをするという、訳の分からない遊びをしていた。マウンテンバイクではなく、大体お母さんのお下がりのママチャリでそんなことをしているものだから、大体一人は階段のところでタイヤをパンクさせていた。誰かがパンクするまでやり続けるという暗黙のルールがあったような気さえする。そんな俺達は、縄張りを張っている学区の小学生からしたら邪魔で仕方がなかったことだろう。

ママチャリで走り降りた階段

 思い出に浸りながらのんびり遊歩道を歩いていたら、ある男の事を思い出した。

 家から10mくらい離れたところに、浅野という幼馴染が住んでいた。祖父母と3人暮らしで、両親がいなかった。
 明るく天真爛漫だが人見知りでどこか影がある浅野とは、小学校に入る前から仲が良かった。身長も体重も成績も平均的だが、運動神経抜群の野球少年だった。頭は坊主ではなく、トップは長いが横と後ろは刈り上げていて、重たい前髪のすぐ下から一重の細い目が覗いており、何となく指名手配犯のような不気味さがあったが、飾らない人柄からかそれなりに友達は多かった。

 あれは小学校4年生だったと思う。
 浅野と俺が2人でこのふれあい公園に訪れた。何故かその時は歩きだったと記憶している。

 その時、俺は祖父から買い与えられたガスガンを手にしていた。
 ガスガンとはエアガンを強化したもので、空気圧でBB弾を飛ばすエアガンに対して、より高圧に圧縮された液体ガスをマガジン(弾倉)に溜めて、その圧力でBB弾を発射するという、10歳あまりの子どもに買い与えるには度が過ぎる凶器だった。当時でも18歳未満は使用禁止だったが、自身も銃器や日本刀などの武器コレクターだった孫想いな優しい祖父が、誕生日プレゼントに俺にくれた。
 一度大きなゴキブリを撃ってみたらたまたま命中し、可哀想なゴキブリが跡形もなく爆散した事を覚えている。その時放ったBB弾は家の柱に深くめり込んでいた。

祖父からもらったステアーモデルGB

 俺は紛れもない凶器をプラプラと片手に弄びながら、浅野とこの公園に足を踏み入れた。
 どう考えても目立つ2人だ。案の定、知らない小学生2人に話しかけられた。
 しかし、意外にも仲良くなってしまった。俺はともかく、人見知りの浅野と一緒にいる時に、これは珍しい事だった。

 1人は、月野だか月島だか月村だか、とにかく「月」が名前にあったのは覚えている。ここでは仮に月村と呼称しよう。月という名前以外には何も思い出せないくらい無個性な、たぶん割と良い奴だった気がする。
 もう1人は、逆に名前はまったく思い出せないが、天パのずんぐりむっくりで黒いパツパツのTシャツを着た、性格・振る舞いともにいかにもガキ大将といった感じの大男だった。ここではデブと呼称しよう。
 2人とも一歳年上だった。

 4人は談笑したり、鬼ごっこをしたりしながら仲良く遊んでいた。
 しばらくして、俺は何故か持っていたガスガンを浅野に預けた。浅野はずっと羨ましいと思っていたのか、手にするや否やガスガンを四方八方に乱射しながら、公園の遊歩道を歩き始めた。月村とデブは笑いながらそれを見ていたが、先述の通り、それがとんでもない威力を持つ代物であると知っている俺は、何となく嫌な予感がしていた。
 おそらく俺以外の全員がそれをただのエアガンだと思っていた。しかし、実際に手にした浅野には、その重さといい、トリガーのキレの良さ、発射音の鈍さなどでそれがただのエアガンでないと気付いたはずである。なのに無表情で周囲の木々や地面を撃ちまくる彼の異常性に俺は寒気を覚えていた。
 遊歩道を一周して戻ってきた浅野に、デブが笑いながら
「俺にも貸せよ」
 と近づいた。
 その時だった。故意なのか否かは今となっては謎だが、浅野がガスガンでデブの腹を撃ち抜いたのだ。
「はうっ!!」
 デブは腹を抑えて後退りした。デブの顔を見ると、驚きと激痛で明らかにパニクっていた。デブは黒いTシャツを捲り撃たれた場所を確認すると、へその上あたりに1円玉ほどの大きさに丸く赤い跡が出来ていた。
 俺と月村はあまりに唐突な出来事に固まっていた。当の浅野も驚いたようで、ガスガンをデブに構えたまま、黙ってその様子を見守っていた。
 やがてデブの表情が怒りに変わり、怒声を上げて浅野に掴み掛かろうとした。
 浅野は咄嗟に身をかわし、片手にガスガンを持ったままダッシュで逃げた。デブは腹を抑えたまま浅野を追いかけるが、一向に追いつかない。浅野は足が速かった。
 浅野は公園中を逃げ回った後、俺達が入った反対側の出口から走り去った。ガスガンを持ったままだった。
 デブは息切れしながら、やはり腹を抑えてこちらによろよろと戻ってきた。その表情からは、疲労よりも依然痛みと怒りが滲み出ていた。
 俺は、デブの怒りの矛先が俺に向くのではないかと危惧し、月村に「じゃ、俺も帰るわ」とだけ言って足早に公園を出て行った。月村は心配そうにデブを見つめながら、「おう」とだけ言った。
 公園を出て少ししたところで、片手にガスガンを持った浅野が俺を待っていた。
「うい」
 浅野が俺にガスガンを無表情で手渡した。俺も特に先ほどの件には触れず、
「はい」
 と受け取った。で、何となくその日は解散したのだった。

 これが、郷愁に駆られるというやつか。


 俺は何とも言えない心地良さに浸りながら、また歩き始めた。
 そうだ、公園を巡って行こう。俺達の遊び場はもっぱら公園だった。もっと新鮮に、いろいろな事を思い出せるかもしれない。

 それから10分ほどして、おぼろげな記憶を頼りに、次の公園に辿り着いた。
 そう、ここだ。同じく縄張り外の青井にある、その名も『青井公園』である。

青井公園

 ちなみに、当時は各公園の正式名称などほとんど知らなかった(入り口にある正式名称の載っている標識はいちいち見なかった)ので、俗称で呼んでいた。先ほどのふれあい公園はたぶん『階段公園』とかそんなところだと思う。対してここ青井公園はほとんど行かなかったから、名前すら付けなかった気がする。

 何故そんな公園に思いを馳せたのかと言うと、先ほどの浅野発砲事件と同時に、もう一つ、浅野が起こした凄惨な事件を思い出していたからだ。その記憶に確証を得るため、この事件現場にやって来たのだ。20年以上経っているのに、我ながらよくナビ無しで辿り着けたなと思う。

 青井公園の大きな特徴は、敷地の真ん中にフェンスで囲まれたグラウンドがあることだった。野球をするには狭過ぎるので、せいぜいキャッチボールかフットサルをやるくらいのものだが、当時から普通の公園でのボール遊びは禁止されていたので(されていてもやっていたが)、堂々と野球ボールとバットが使える公園は魅力的だった。
 フェンス付きのグラウンドがある公園は、実はもっと近所にもう一つあったが、そこはもっと広く、大抵先客がいた。事件当日、俺達はこの閑静な住宅街の真ん中にある目立たない公園を探し当てたのだった。

 あれは小学校5年生だったと思う。
 その当時、俺は浅野の他に、中野、高橋という同級生とつるんでいた。その2人も元々知っていたが、本格的に4人で一緒に遊ぶようになったのは確か小5あたりからだった気がする。
 その日は、俺達4人の他に、もう4人いた。明確なメンツは覚えていないが、その中に同じクラスのイトウくんというのがいた。イトウくんは、ヒョロッとして小さいが威勢が良く、泣き虫のくせにすぐイジる側に回ろうとする、何もないのにヤンキーぶってオラついてる可愛げのない小物だった。当然、俺達とよく遊ぶグループではなかったが、この日は何故か一緒にいた。俺達いつもの4人と、イトウくんのグループ4人で、野球をやろうというわけだ。

 先述の通り、野球ができるスペースはないし、当然人数も足りない。その代わり、当時よくやっていた三角ベースをやることになった。三角ベースとは、要するに2塁を抜いた1、3塁だけでやる野球のことだが、4人ならピッチャー、キャッチャー、ファースト、サードってわけで、まあ出来ないこともない。加えてファーストとサードは同時に外野も守ることになるのだが、小規模だし兼任は容易い。 

グラウンド。写真で見るより狭い

 俺達のチームは、ピッチャー浅野、キャッチャー俺、ファースト兼ライト中野、サード兼レフト高橋といった分担だった。

 8人はゲームを楽しんでいたが、明らかに俺達は負けていた。浅野は少年野球チームに所属していたが、他3人は素人だった。俺は運動が苦手で、中野や高橋は運動神経は良かったが、あまり野球のルールも理解しようとしていないような状況だった。
 対してイトウくんチームはイトウくん以外全員経験者だった。守備も攻撃も圧倒的に分が悪かった。
 俺、中野、高橋は勝敗は気にしていなかった。自分がボールを多く触りたいとか、ヒットを打ちたいとか、その程度の感覚だった。
 だが浅野は違った。ゲームが進むにつれ、浅野は無口になっていき、目が座っていった。浅野は負けず嫌いで、しかも得意な野球とあれば、なおさらこの状況が許せなかった。

 何回の表か裏だったか、もう点差がかなり開いた頃だった。俺達が守備で、イトウくんチームが攻撃だった。
 打席に立ったのはイトウくんだった。イトウくんは浅野のストレートを見事に捉え、綺麗なヒットを決めた。イトウくんは1塁に出て大いにはしゃぎ、俺達を挑発していた。
 事件が起きたのはこの直後だった。
 次の打者が打席に立った時、イトウくんは3歩ほどリードして浅野を挑発していた。大幅に離れるのではなく、絶対に間に合う距離でピッチャーを煽るところにイトウくんの小物ぶりが表れているわけだが、とにかく執拗に目が座り切った浅野を煽りまくっていた。
 俺はホームベースの後ろから、浅野が限界を迎えていることが見てとれた。
 浅野は一塁に振り返り、右手を振りかぶり左足をぐっと前に出した。イトウくんはすかさず1塁に戻るが、この際にわざわざヘッドスライディングで戻った。明らかにそんなことをしなくてもいい距離だが、それもまた彼なりの挑発だった。
 浅野は構えたまま投げなかった。どう考えても間に合わなかったからだ。、、、と、その時は思った。
 次の瞬間、イトウくんが腹這いになって一塁の上に乗っているのをしっかりと確認した上で、浅野はイトウくんの横っ腹めがけて豪速球を投げつけた。
 軟球はイトウくんの脇腹に命中し、「ゴッ」という鈍い音が鳴った。イトウくんは腹を押さえてのたうち回るが、呼吸が出来ない。
 俺、中野、高橋、そしてイトウくんチームの残り3人は、言葉を失っていた。ピッチャーマウンドでは、浅野が無言のまま立ち尽くし、苦しみ悶えるイトウくんを凝視していた。
 やがてイトウくんは呼吸が出来るようになり、何回か咳き込むと、倒れたまま腹を押さえてしくしく泣き始めた。誰も言葉を発しなかった。しばらくの静寂の後、ファースト中野が呟いた。

「アウト」

 ゲームはそこで終了し、何となく解散した。結果はドローとなった(何でだ)。

 後日談がある。
 この数ヶ月後、リベンジマッチよろしく近所の公園でイトウくんチームと三角ベースが行われたが、この時もイトウくんは俺達を煽り散らかし、1塁に出た際に、今度は中野に制裁を加えられた。
 1塁からリードして戻る時に、ヘッドスライディングをしたところ、ファースト中野に顔面に膝蹴りを入れられた。結果、イトウくんの手はベースに届かず、それを見届けた浅野の緩やかな牽制球によりイトウくんはアウトになった。

 そんなことを繰り返しているうちに、誰も俺達と野球をしてくれなくなった。
 実に賢明な判断である。

 ちなみにイトウくんのその後だが、中学校に入学してから中途半端にグレ始め、二十歳を過ぎてから再会した時は、確かクラブか風俗のキャッチかなんかをやってて、若くして離婚裁判だ親権争いだで金がなくて姉の脛をかじっているようなカスに成り下がっていた。この転落の遠因となったのは、かつて仲間の前で理不尽に尊厳を踏み躙られた三角ベースであると思えてならない。

 記憶が鮮明に戻ってスッキリした後、グラウンドから出ると、フェンスに注意書きがかけてあった。
「ボールを、フェンスや人に、わざとぶつけてはいけません」
 どう考えても20年前に浅野が起こした事件を近所の誰かが見ていて、町内会で決めたルールに違いなかった。

普通「人に」って入れないよね。

 こうして町は変化していくのだなと、諸行無常を感じながら俺はまた歩き始めた。

 俺はこの時、すでにもう一つの事件を思い出していた。やはり浅野絡みだった。

 その事件現場、と言ってもやっぱり公園なのだが、そこまでは距離があったので、少し遠回りしながら当時遊んだ公園を巡ってみる事にした。

 そこから一番近くにあったのが、青和コミュニティ公園である。

青和コミュニティ公園

 俗称は『コミ公』だった気がする。やはり縄張り外だ。大きなアスレチックと滑り台、そしてその向かいには青井公園よりも大きなグラウンドがあった。そこにはフェンスがなかったが、三角ベースをやるには十分の広さだった。そして、ここでやった三角ベースでも何かあったような気がする。

 この公園はあくまで経由地だったが、ここにも浅野にまつわるエピソードが眠っていることを思い出した。

 この公園に隣接する都営住宅に、とんでもない悪ガキが住んでいた。親しくないのでイニシャルでとするが、俺達の2つか3つほど上の学年で、隣の町までその悪名が轟くほどの不良だった。

 で、その日は俺と浅野と、もう2人くらいがいて、そこに何故か知らない女の子が近付いてきた。小さな女の子だった。俺達はその子と一緒に遊び始めた。今日のような夏の猛暑日で、その子は麦わら帽子を被って虫取り網を持っていた。
 この虫取り網が、先端の網の部分と棒をガムテープで補強しており、すでに取れかけていた。それを、浅野が女の子から借りた瞬間に、ポロッと先端が取れたのだ。
 完全に浅野のミスではなかった。しかし、女の子は知らないお兄さんに網を壊されたと泣き喚いた。

 そこに、女の子の姉を名乗る、見るからにガラの悪そうな強烈な女がすっ飛んできて、浅野の胸ぐらを掴み怒声を浴びせた。浅野は驚いていたが、次第に例の目付きに変わって行った。姉を名乗る女は、浅野の殺気を感知したのかすぐに手を離し、俺達を並べて説教を始めた。俺達よりも一歳上の女子だった。
 反省の色を見せない俺達に、その女はさらに激怒し、妹の手を引き隣接する都営住宅に消えて行った。
 そこで気付くべきだった。そして逃げるべきだった。
 ナメ腐っていた俺達は、その場から逃げずに次に何が起こるかを楽しみにしていた。

 案の定、2人はAを連れて戻ってきた。Aの妹達だったのだ。
 何故か顔を知っていた俺達は戦慄した。今考えれば、4人がかりで襲い掛かれば何てこともなかったかもしれないが、他校まで単身で乗り込んで授業中に目当ての奴を半殺しにしたという伝説を持つAである。俺達は報復を恐れ、じっとしていた。
 Aは低い声で「壊した奴は誰だ」と聞いた。すると、あっさりと浅野が名乗り出た。次にAは「土下座したら許してやる」と言った。さすがにやりすぎだと思った瞬間、浅野は目にも止まらぬ速さで地に手足を付け、透き通るような声で「すぃやっぇんしたぁ」と口走り、素早く頭を下げた後スクッと立った。おそらくそれは世界一スピーディーかつ世界一感情のこもっていない土下座だった。

 こうして俺達は解放された。その後ひと言も喋らずに自転車を漕いで帰って行く浅野の背中を見ながら、「なるほど、勝てない勝負はしないんだな」と感心したのを覚えている。


 エピソードの宝庫だなアイツは。

 このクソ暑い中、浅野の代わりに思い出の地を巡っている自分の行動にだんだん疑問を抱き始めていたが、割に楽しい時間だった。

途中で寄った公衆トイレ。丸見えである。

 ところで、お盆最終日だからか、日曜日だからか、もう夕方に差し掛かろうというのに、どの公園にも子どもがいなかった。
 俺の記憶が正しければ、自分が小学生の頃は、夏休みは毎日どこかの公園で遊んでいた気がする。上記のエピソードのどれかも、夏休みの出来事ではなかったか。いずれも暑い日だったのを覚えているし、いくら帰省している家もあるからといって、公園を転々と渡り歩いていてこんなに子どもに会わないことなんてあるのか。誇張無しで、本当に一人も子どもに会わなかったのだ。

 どこか寂しいような気持ちに駆られながら、青井から出て、西綾瀬に足を踏み入れた。
 俺が向かったのは、やはり思い出の詰まった西綾瀬公園である。ギリギリ学区外だが、ここは、隣の小学校の上級生から喧嘩を売られ、嫌がらせのやり合いの末に向こうの親が出てきてそいつらと共にこちらに謝罪し、その後仲良くなってこちらのホームの公園に迎え入れて一緒にサッカーをしたという涙無しでは語れない胸熱エピソードを持つ公園である。

西綾瀬公園

 結構入り組んだ場所にあったので道に迷ってしまい、やっとの思いでその公園に辿り着くと、俺はその変わり果てた姿に言葉を失った。
 アスレチックのある広場に、雑草が生い茂っていたのだ。

雑草が生い茂った広場

 それは、全く手入れがされていないこと、そして手入れをする必要がない事を意味していた。
 この公園で遊ぶ子どもがいなくなったのだ。

 俺の記憶違いかと思った。いや、そんなはずはない。確かにここで走り回ったりした覚えがある。下は砂か土だった。絶対にそうだ。
 他校の上級生に喧嘩を吹っかけられたのは、この広場の脇にあったブランコ付きのアスレチックだったが、それらも跡形もなく消えていた。

砂場の奥にアスレチックがあった。
長髪だった俺が「女みてーだな」とからわれたことから
俺達と上級生達の抗争の火蓋が切って落とされた。

「まさか」と俺は不安になった。俺がこれから向かおうとしている最後の事件現場も、この様な有様なのでは?
 もう1時間くらい歩いていたので、暑さもあって疲れ始めていたが、その不安が俺の足を速めた。

 そして、そこに辿り着いた時、俺は胸を撫で下ろした。この旅の最後の目的地、『弘道第二公園』は、ほとんど当時の姿のまま、俺を待っていてくれたのだ。

弘道第二公園

 ピンク色の大きな滑り台と、その下に大きな砂場を有する独特なアスレチックのあるこの公園の俗称は勿論『ピンク公園』略して『ピン公』だ。

 ここで浅野が起こした事件は、紹介した事件の中でも最も古く、そして浅野の異常性を最も顕著に世間に知らしめたものである。

 ピン公は、バリバリ俺達の縄張りの、言わばホームグラウンドである。遊んだ回数は数知れない。
 俺は滑り台に近付いた。当時あんなに巨大な建造物だと思っていたのに、こんなに小さかったとは。斜面のふもとに横たわっていた子ども用の自転車が物悲しかった。

ピンクの滑り台。当時はもっとピンクだった。
乗り捨てられた自転車。


 砂場の上に立つと、記憶が蘇ってきた。

 おそらく小4だったと思う。その日は、俺と浅野、他数人でピン公で『蟻地獄』をして遊んでいた。

 蟻地獄とは、弘道に住む者なら誰もが知っている(はずの)ピン公特有の最も有意義な遊びで、俺達も先輩方から教わった(気がする)ものである。
 鬼を1人決め、それ以外の者は滑り台の上に座り、両足を斜面に投げ出す。鬼は下の階段から滑り台の斜面を駆け上がり、上に座っている者の足を引っ張って砂場に落とす。鬼はその隙に斜面を駆け上がり、砂場に落とされた者が鬼となる。これを繰り返す。
 滑り落ちた先は砂場だから、落ちる事自体にほとんど危険はない。しかし、鬼は足を掴もうとしたら蹴られたりする危険もあるし、鬼は鬼で足を掴みそのまま持ち上げた状態で引きずり下ろし、足を掴まれた者にお尻や足で着地させず受け身が取れない体勢で背中から落とすという裏技も開発され、俺達の代あたりから蟻地獄はハードコアスポーツになりつつあった。
 そんな蟻地獄は、その日も一定の盛り上がりを見せたが、やがてマンネリ化しそれでは満足できなくなった。

 そこで、その日に開発されたのが、『格闘ワニ鬼』である。
 このセンスのかけらもない痛々しいネーミングからして、考案者は俺だった気がする。

 格闘ワニ鬼のルールは、引きずり落とすまでは蟻地獄と同じだが、引きずり落とされた者と鬼は砂場で格闘を行い、その勝者が滑り台の上に行くことができるという、何とも過酷なものだった。
 格闘、そして勝利するという何とも定義が曖昧な言葉に誰も疑問を抱かず、正式なルールとして採用してしまうところに、小学生の幼さを感じる。どう考えても早い段階で喧嘩になるに決まっていた。

 いざ始まった格闘ワニ鬼だが、最初の2、3ターンでもう険悪なムードが漂い始めていた。勝利する=ノックアウトするという方程式が全員の中に出来上がってしまった今、反撃に出るのに時間を要するほどのまあまあのダメージを相手に与えなければ、斜面を上がることはできない。そして、やられた方は悔しいからダメージが回復した暁にはどう考えても自分をやった前任の鬼をターゲットにする。
 結局2人だけの小競り合いになり、周りがそれを面白がって見物するという図式が出来上がるのだ。

 最初に鬼になったのはXくんだった。この人物の候補が何人か思い浮かんだが、どうしても1人に絞れなかったのでXとした。
 Xくんは、浅野をターゲットにした。浅野が一番勝てそうだと踏んだのだろう。当時浅野は明るい野球少年として認知されていて、先述のような異常性はまだ一部にしか明るみに出ていなかった。
 引きずり下ろされた浅野は最初、Xくんに突き飛ばされて、その隙にXくんは滑り台を駆け上がった。回復した浅野は案の定Xくんを狙う。Xくんは足をばたつかせ抵抗するが、浅野は例の受け身の取れない裏技でXくんを引きずり落とす。この裏技がもろにクリーンヒットし、背中を強打したXくんはなかなか立ち上がれない。浅野は『格闘』することなく斜面を駆け上がり、何食わぬ顔で定位置につく。
 そして復活したXくんは、少し怒りの表情を浮かべて浅野を狙い、同じ裏技で浅野の背中にダメージを与えようとするも、上手くいかず、『格闘』する流れになってしまう。
 しかし、まだ暴力に躊躇していた浅野は、またもXくんにやられてしまい、鬼に戻ってしまう。浅野はまたXくんを狙い、足を掴んで例の裏技を仕掛ける。
 この時、掴まれている足と反対の足をXくんがばたつかせ、浅野の鼻先を掠めた。

 浅野の目が座った。

 砂場に降りて、対峙する2人。余裕を見せ、笑顔を浮かべるXくんの左太ももに、浅野が強烈なローキックを浴びせた。予想外の本格的な攻撃にふらつくXくんに、浅野は続けて2発ほどローキックを喰らわせる。たまらず片膝をつき前のめりになるXくん。
 次の瞬間、浅野は何を思ったか、Xくんの頭を自分の股に挟み、Xくんの背中に自分の胸を付けるようにしてXくんを抱き抱え、そのまま自分の背中をグイと反らせてXくんを持ち上げたのだ。

こういう状態。
※1978年8月2日 アントニオ猪木vsザ・モンスターマン

 俺達は息を飲んだ。浅野は無情にも、そのままXくんを砂場に叩きつけたのだ。

こういう状態。
※1978年8月2日 アントニオ猪木vsザ・モンスターマン

 Xくんは背中を強打し、呼吸ができなくなってしまった。浅野はただ黙ってその様子を見下ろしていた。
 上からその様子を見ていた俺は思った。

 パワーボムだ…。

浅野のそれは、獣神サンダーライガー氏によるパワーボム、
通称『ライガーボム』に近かった。よって、あの技を
『浅野ボム』と名付けることにする。名付けてどうすんだ。

 小4の喧嘩でプロレスの大技が見られるなんて。てか怒ってるのに何でそんな複雑な技を思いつくんだ?冷静だったのか?

 この後の流れは同じだ。呼吸を取り戻したXくんはしくしく泣き出し、浅野は自転車にまたがり公園を後にする。残った俺達は流れ解散。
 不思議と伸ばされた奴に何の言葉もかけないというのが小学生男子独特の風習だった。


 誰もいなかったので、何となく滑り台を駆け上がってみた。意外に急で少し驚いたが、わずか3歩で上まで行けてしまった。当時は勢いをつけて両手足を使ってバタバタと駆け上がっていた。何とも言えない気持ちになった。

上からの眺め。割と吸い込まれそうである

 しばらくそこに立っていて、すぐに降りた。
 色々なことがあったなー。
 ああ。懐かしいな。



 いい加減疲れたので帰ることにした。


何となく壁にかけてあげた

 ちなみに浅野は、中学校までは一緒だったが、中学卒業後は地元を離れて、単身で大島の定時制高校に通うことになった。フェリーで一人旅立つ彼を竹芝桟橋まで送って行った事を今でも覚えている。
 高校卒業後は、運送業をやったり、フェリーの乗務員になったりしながら都内を転々として、最近は五反野駅の隣の梅島という駅の近くに住んでいるらしい。巡り巡って足立区に戻ってきた訳だ。
 ひょっとしたらあいつも、昔遊んだ場所を巡りながら思い出に浸ったりしているかもしれない。

 ま、どうでもいいやあんな奴。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?