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終わりを決めるということ

どこで終わりにするのかを決めるということ。

終わりの時間が決められていれば、どこで終わりにするのかを迷うことはない。

ただ、「どこで終わってもいい」というセッティングのとき、どう終わりを決めるかということに、その人の人となりが現れる。

別に、誰からも、終わりの時間を決められてはいないのに、自分で「終わりの時間」を設定して、その時間がきたら終わりにする、というやり方をする人がいる。

あるいは、自分が納得いくまでやり切ったときが、終わりだというやり方をする人もいる。

あるいは、その場に自分以外の人がいる場合には、他の人と話し合いながら、終わりを決める、という人もいる。

そんな風に、いろんな終わりの決め方があって、それぞれの人がそれぞれのやり方で、終わりを決めていく。

人は、生きる中で、数えきれない物事の、終わりを決めていく。

一人の人であっても、毎回同じように、終わりを決めるわけではないだろうし、本当は理想の終わり方があったとしても、そんな風にならないこともある。

原初的には、例えば子どもなんていうのは、「自分が納得いくまでやり切ったときが、終わり」というのが、すべてなんだろうと思う。

それが、いろいろな経験を経るなかで、だんだんと、「自分が納得いくまでやり切ったときが、終わり」という終わり方ができなくなっていく。

大人になって、折り合いのつけ方を覚えて、「自分が納得いくまでやり切ったときが、終わり」という終わり方以外の終わり方をすることがスタンダードになっていく。

社会でも、期間を決めて、というのがスタンダードになっている。

コストパフォーマンスという考え方が浸透し、「いつまでもダラダラと」ということが、ネガティブなこととして責められるようになり、期間を決めて、そこまでにできることをやる、というやり方が、「疑う余地のない正しいこと」として、世の中に知られている。

カウンセリングでも、12回のプログラムなど、期間を決めて行うというものが増えてきている。

以前は、「どこをカウンセリングの終わりにするか」ということが一つの大きなテーマとして論じられるほどのことだったのであるが、終わりがすでに決められているセッティングでは、そのようなことは問いにすらのぼってこない。

それはそれで良い面もあるのかもしれないけれど、それで失うものもあるような気はする。

クライエントとカウンセラーが、終わりの決められていないセッティングの中で、どこを終わりにするかを話し合いながら決めていくというやりとりは、私はすごく価値があるやりとりのように思えてならない。

そういうことこそが、人と人とのやりとりであって、そういう中で生きていくというのが、社会で生きていく、ということなのだろうと、私は思う。

それを切ってしまうということは、私はどちらかというと、失うものの方が多いんじゃないかという気さえする。

ただ、それは、社会の流れとは異なる考え方なんだろうなという気もして。

そんな風に、すでに「正しいやり方」が決められているように見える社会に対して、自分がどうコミュニケーションをとっていくのかというのは、今後の課題だなあと思う。

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